ヤマハ発動機から数えて加入10年。松本力哉が32歳で現役を引退した。
最後の試合はリーグ最終節の前日(4月22日)におこなわれた、トヨタヴェルブリッツとの練習試合。ゲームキャプテンを任され、勝利で競技人生を締めくくった(43-29)。
「僕以外にも引退する選手が数人出ていたので、良い試合をして勝って終わりたかった。ただ、若い選手も出ていたので、引退する人のためだけではなく、ブルーレヴズの未来に向けてはずみになるような試合にしようと話しました」
今季の公式戦出場はなかったけれど、「試合に出たらある程度のパフォーマンスは出せる感触はあった」。ケガもなく完走できた。
「最後の試合のパフォーマンスも良かったと思います」
引退を考え始めたのは昨季からだった。負傷に加えて、若手の台頭もあった。
「世代交代なのかな、と」
「もう1年」と踏みとどまったのは、「ケガをしたまま終わりたくない」気持ちがあったからだ。ベテランとして、チームに残せることを考えていた。
「ワンシーズン、良いコンディションで戦ってやり切ろうと。試合に出る、出ないに関わらず、練習から全力を尽くす。そういう姿を若手が見て、なにかを感じてもらえたらと思っていました」
今シーズン半ばには、堀川隆延HCに引退の意思を伝えた。「自分らしく、最後の最後まで食らいつけた」とラグビー人生を振り返る。
大阪の柴島中でラグビーを始めた。2年生の終わりに、野球部から転部した。
「小学生の時はエースでした。でも中学には自分よりレベルの高い選手もいて限界を感じてしまったんです」
1年生からの担任だった瀬戸先生が偶然、ラグビー部の顧問だった。入学した時から冗談で「いつでも待ってるからな」と声をかけられていた。
高校で続けるつもりはなかったけれど、瀬戸先生に「お前はラグビーしないとちゃらんぽらんな人生送るで」と言われた。
「腰パンとかしていて、だらしなかったんです」
恩師の助言通り、汎愛高校、龍谷大で競技を続けた。龍谷大では4年時にキャプテンも務める。前年の主将はレヴズでもともにプレーする伊東力。Bリーグを1位通過し、入替戦では惜しくも昇格を逃していた。
それが自分たちの代ではまさかの4位に終わる。アマナキ・レレイ・マフィ(現横浜E)がいた花園大にも敗れた。
「史上最弱の代のキャプテンになりました」
ヤマハ発動機にはトライアウトで入団した。4年時から龍谷大の監督だった、大内寛文さんにこのテストを勧められた。
「自信がないと言いました。でも絶対に受けた方がいいと。正直、トライアウトの出来はそこまで良くなかった。大内さんがパワーでねじ込んでくれたのだと思います」
高校は弱小校、大学もトップ校ではなかったから、「反骨心の塊でした」。
「ヤマハは当時、有名ではない人もたくさんいて、雑草軍団でした。僕はその中でもかなり雑草(笑)。目の前の相手に負けたくない、ライバルに負けたくない気持ちがずっとありました」
同期には、同じバックローの堀江恭佑(現日野RD)がいた。1年目から活躍して、新人賞をとる。かたや松本は3年目を終えて、一度も出場機会を得られなかった。
「悔しかったし、折れそうになったこともありました。でも、堀江がいたから食らいつけました」
どんな食事をしているなか、どんなウエートをしているのか、どんな生活を送っているのか。常に観察した。
そのギラギラした目を感じていたのだろう。引退の報告をした時、嬉しい言葉をくれた。
「僕がいたから、試合に出た時に中途半端なプレーはできない気持ちになれたと言ってくれました」
その姿勢を最後まで貫いた。
「(若手の)庄司だろうが、リチャードだろうが、最後まで全員をライバル視していました。でも、もうそういう目で彼らを見なくて良いので、ホッとしています。もちろん、普段は仲良いんですよ!」
待望のデビューは4年目の開幕戦。シーズン前にはプレースタイルを変えるため、大きな肉体改造を敢行していた。
「もともとボールキャリーが好きで、その強みを出したいと思ってやってきたけど、外国人選手もいる中で、アタックで突き抜けることはできないなと。ブレイクダウンに頭を突っ込む、何度もタックルする、下のボールに飛びつく…。そういう泥臭さで勝負するしかないと思いました」
体重も落として、運動量を上げた。「あの時のほうが体は大きかった」と言われたこともあったけど、生き抜くために決断したから後悔はなかった。
「やってきたことが間違ってなかったと思えた」のは、翌シーズンの神戸製鋼戦(第12節)だ。
「(208㌢の)アンドリース・ベッカーをひっくり返せたり、良いタックルがいくつかできたんです」
堀江のケガもあって、そのシーズンはレギュラーに定着。それでも、清宮克幸監督(当時)は「決して代役ではない」とメディアに伝えてくれた。
「やり続けていれば、誰かが見てくれる。試合に出る、出ないは関係ないんです。腐らずに練習から一生懸命やる。そうしないと誰かがケガした時に、そもそもの選択肢に自分が入らない。公式戦は20試合くらいしか出ていませんが、そうしたところで10シーズン在籍させてもらったんだと思います」
チームのムードメーカーだった。同期の山本幸輝(現神戸S)とは良いコンビだった。その役を継ぐ鹿尾貫太には、「相方を探せ」とアドバイスを送った。
「ラグビーだけでチームは作れない。雰囲気を作るのも絶対に大事。清宮さんにはいつも急に振られて、育ててもらいました」
今後は社業に専念しながら、母校の龍谷大でコーチもする。昨季の入替戦を現地観戦して思うことがあった。Aリーグと差はないと感じた。
「もっとこうしたら、ああしたら、というのがたくさん思い浮かんで。いろいろ経験させてもらったので、それを還元できたらと思っています」
最後まで食らいついた男の言葉は、後輩たちにもきっと響く。