ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】縁。池上王明[日鉄神鋼建材株式会社/尼崎製造所]

2023.05.01

日鉄神鋼建材の尼崎製造所で働く池上王明さん。京産大や神戸製鋼(現・神戸)ではトップレベルのラグビー選手だった。プロ選手やコーチを経験した上で正社員に戻る。その経験を生かし、社業に専念している



 書き出しは確か、
<絡む。絡む。とにかく絡む>
 だったように思う。

 ラグビーマガジンに四半世紀前に載った池上王明(いけがみ・きみあき)の原稿だ。京産大時代は学生屈指のフランカー。180センチ、80キロほどのひょろっとした体を常にボールにそわせる。狩猟犬のようだった。神戸製鋼(現・神戸)でもプレーを続けた。

 この5月末で池上は47歳になる。二児の父は今、社員300人ほどの日鉄神鋼建材に籍を置く。勤務する尼崎製造所は武庫川の河口にある。甲子園球場2個分の敷地では、ガードレールや落石防護のネット、防音壁などが作られている。道路関連の事業が主体だ。

 池上は構内で青い作業着に身を包む。道路を歩く時は端の安全帯を使う。横切る時は指さし呼称をした上で横断歩道を渡る
「僕が決まりを破るわけにはいきません」
 管理室の人事総務グループ長としての立場がある。真面目さ、穏やかな口ぶり、目が一本線になる笑みは学生時代と変わらない。

 神戸製鋼では社員選手、プロ選手、プロコーチを経験した。母校の京産大でもラグビーを教える。その後、正社員としてこの会社に入社する。この4月で10年目に入った。
「高校に行って、仕事の話をしたりもします」
 その経験はなかなかに得難い。教育現場からの講演オファーも納得できる。

 ラグビーを始めたのは大阪・枚方(ひらかた)の中学、招堤北(しょうだいきた)。それまでやった柔道部がなかった。高校は同じ枚方にある東海大仰星に進んだ。ひとつ先輩は大畑大介。日本代表キャップ58を誇るウイングを高大社と追いかける。

 フランカーとして頭角を現したのは京産大。3年時、大学選手権で4強入りする。34回大会(1997年度)だった。38−46と優勝する関東学院に敗れたが、この得失点差8はもっとも詰まったものになった。

 この時の京産大は、監督の大西健が手塩にかけたスクラムにこだわった。関東学院は左プロップが中に入って来る京産大のスクラムを研究。トイメンの右プロップを同じ内側に入り込ませ、安定させなかった。

「勝つためのトライを獲りきれなくて、よかったとは思いませんが、ずっとそこにこだわってやってきました」
 大西への恩義は今も残る。
「7人ほどいいフランカーがいたのに、大西先生は僕を2年から使ってくれました」

 その試合直前に見た国立競技場の光景は今も忘れられない。
「走ってグラウンドに出て行くのですが、スタンドがすごく高かった。その上まで人また人でした。夢がかなった瞬間でした」
 ラグビーは大学で終えるつもりだった。

 アウトドアに興味があり、そのメーカーへの就職を望んでいた。ところが、合否が来ない。3月28日、東西学生対抗に出る。その時でも連絡はなかった。大西は言った。
「誘ってくれていた神戸に行け」
 3日で入社が決まる。
「会社の人は大変やったと思います」
 今、受け入れる側に回り、その苦労を知る。

 神戸製鋼は池上が加入した1999年度から全国社会人大会と日本選手権の2大大会を連覇する。それ以前、2つの7連覇が途切れたのは1994年度。池上の1年目は復活年と重なる。その年から公式戦に出場する。

 入社4年後の2003年にトップリーグができた。その初代王者に神戸製鋼がついた。この新リーグに合わせて、社内のプロ制度が拡充された。池上も社員からプロになった。現在このリーグはリーグワンになっている。

 その3年後に現役引退。この2006年、メンタルの重要性を学ぶ。母の美知代がガンで亡くなった。
「急に走れなくなりました。長距離走も最後。プロップの先輩に負けました」
 その時、メンタルコーチの話を聞き込み、カウンセリングを受けた。
「話を聞いてもらうだけでしたが、気持ちが楽になりました」
 また走れるようになり、試合に出た。

「その人の中に答えはあるんですよね。相手を認めて話を聞く。そして、本来、持っているものを信じて、能力を引き出す。みんな無限の可能性を持っているはずです」

 メンタルでの学びを生かしながら、現役引退と同時にコーチに横滑りした。GMだった平尾誠二のすすめもあった。1年在籍した後、京産大に移る。6年を過ごした。

 その流れの中で池上の周囲は変化する。配偶者ができ、子供も生まれた。
「コーチをしていれば、土日はまったくありません」
 子育てには参加しにくい。単年度契約も家庭を持つ上で不安要素だった。

 その時、興味を持ってくれたのが、元々は神戸製鋼のグループだったこの会社である。当時、採用担当役員だった山本隆司は現副社長。マラソンの喜多秀喜らを輩出した神戸製鋼の陸上部の出身である。

 現社長の古川武彦は同志社でハンドボールをやった。この大学で萩本光威(みつたけ)の同期になる。萩本は神戸製鋼のヘッドコーチや日本代表の監督などを歴任した。現在は関西ラグビー協会の会長。池上は2人の食事のお供をしたりもする。

 池上の採用は38の年だった。スポーツマインドを持つ経営陣には感謝がある。
「ラグビーが生きている。ありがたいですね」
 管理の仕事にも満足している。
「昔の仕事を生かせてもらえています」
 神戸製鋼の社員時代も総務にいた。
「今は高校生や大学生の採用を主にさせてもらっています」
 池上は縁に包まれて生きている。その縁を外に広げてゆく。その役目にまい進する。


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