ラグビーリパブリック

人生何があるかわからない。佐々木柚樹[大東大3年/LO]、U20への挑戦

2023.04.14

大東大3年の佐々木柚樹は早生まれ(2003年2月19日生まれ)のため、U20の資格を有する(撮影:松本かおり)

 実感こそあるけれど、どこか夢見心地な気分だ。
 U20日本代表候補の佐々木柚樹は、その感覚を「感慨深い」と表現する。

 2月から3月までに3度おこなわれた、U20のセレクション合宿をパスした。3月中旬からは、78人から約半分に絞られたTIDキャンプに参加している。

 しみじみと言う。
「(世代のトップが集まるこのキャンプは)楽しいです。自分は高校からラグビーを始めましたが、こういう場所でラグビーをするとはまったく考えてもいませんでした」

 青森県出身。中学生までは幼少期から続けた軟式野球に没頭した。
「センスはなかった」と笑う。後輩にサードのレギュラーを取られたこともあった。
 それでも、自分の取り柄といえば野球。進学した八戸工でも続けるつもりだった。

 しかし、中3から高1にかけて急激に身長を伸ばしていた佐々木は見つかってしまう。当時のラグビー部のキャプテンに「いい体してるな」と肩を掴まれ、そのままグラウンドに連れて行かれた。

 すぐに楕円球の虜になった。
「キャプテンがいなかったら、ここにはいません。ほんと人生って何があるか分からないですね(笑)」

 188㌢、100㌔。1年時まで監督だった苫米地衆侯先生(とまべち・ともきみ/現・三本木農業恵拓)には、そのポテンシャルを買われ、入部してまもなく「大学でも続けみないか」と声をかけられた。
 当の本人は困惑する。
「その時はまだ分かりませんと答えました。たまたまラグビーに出会っただけでしたから」

 高校時代に全国大会の出場経験はない。花園予選では3年間で4強入りが最高。3年時は青森北に0-45で完敗し、2回戦敗退に終わった。
 そんな無名選手に「代表」の扉が開いたきっかけのひとつが、2年時に参加したビッグマン&ファストマンキャンプだった。野澤武史TIDマネージャーが創設した、原石発掘プロジェクトだ。

 ここで、今につながる武器を得た。ブレイクダウンでの働きである。「彼はキルワーク(ブレイクダウンで相手を倒しにいくプレー)を極めました」と野澤氏は言う。

 苫米地先生の母校でもある大東大でも、その下働きは高い評価を得た。1年時からリーグ戦全試合に先発し、ほぼフル出場。
 嬉しい誤算だった。
「1年はとりあえずウエートを頑張って、来年以降に先発で出られたらいいな、くらいの気持ちでした」

 周りは全国を経験した猛者ばかり。留学生もいる。同じLOでコンビを組んだサイモニ・ヴニランギはリーグワンの強豪、東京サンゴリアスに入団した。
 佐々木はあえて、彼らの強みと張り合うことをやめていた。

「目立つプレーはあまりできなかったので、チャレンジしないと言えば逃げてるようにも見えますが、手堅くプレーすることを意識してました。フィジカルがないので、キャリアーに寄って押し込んだり、真横について短いパスをもらったり、サポートに徹するプレイヤーになろうと」

「高校の時はガツガツ言ってたんですけどね」と表情を崩す。
 昨季も全試合に出場した。チームは入替戦に進むも、専大を破って1部残留。それからほどなくして、佐々木にU20の扉が開いた。

「みんな上手いので、はじめは慣れないところもありましたが、追いつこう、追いつこうとやってきました」

 3回のセレクション合宿を通して適応した。期待されるラインアウトでは、リフトのスピードを上げたり、ジャンプの無駄な動作を省いてみたりと、細かいことを突き詰めた。

 世代のトップ選手たちと肩を並べ、あらためて目をつぶっていた課題にもチャレンジする。ボールキャリーもできる選手に。体重を増やし、体づくりに励んでいる最中だ。
「細かいハンドリングスキルもまだまだ足りません。(4月中旬の)この合宿ではスキル系の練習が多いので、吸収できるものをどんどん吸収して伸ばしていきたいです」

 ジュニア・ジャパンのメンバーに選出されれば、4月末にはサモアでパシフィック・チャレンジに臨める。世界と戦う。
「自分たちよりもデカい相手ばかりと戦う経験は、本当に貴重な機会。選ばれたら、ビビらずにタックルでバチバチいきたいです。低く入って大きい選手たちを倒したいですね」

 青森の野球少年はいま、当時は予想もしていなかった道を進む。桜のジャージーを背負う日が近づいている。

大学入学後、初めて両親が現地観戦に訪れた昨季の関東学院大戦では、自陣ゴール前でのジャッカルでチームを救い、キックチャージで味方のトライを演出した(写真中央/撮影:高塩隆)
Exit mobile version