福井正純はラグビーにおける善き人のひとりである。この5月で65歳になる。
奈良県ラグビー協会の理事長をつとめている。実務のトップである。喜怒哀楽を出さない穏やかな表情は、ぶつかり合いが軸になるこの競技をやったとは思えない。
「ラグビーを始めて思ったんは、こんな面白いスポーツはないんやないか、ということでした」
高校、大学ともに天理だった。純白の次は漆黒のジャージー。当時の高校監督だった田仲功一は覚えている。
「15で大阪の中学から入ってきました。目がくりっとしていて、体はこまい(小さい)。大丈夫かなあ、と思ったものでした」
田仲は喜寿を超えた。福井はその記憶に残る。現役時代の身長は165センチほど、体重は50キロ少々。心配をよそに、センターとしてえげつないタックルを繰り出した。
「自分がふっ飛んでしまうんやないか、と思うくらいでした。相手のひざ下に入って、外しませんでした」
今で言う「刺さる」。秘めた闘志があった。
「福井は母子家庭でした。私には、父の顔は覚えていません、と言いました」
一家の大黒柱は物心つく前に他界する。
「その言葉を聞いた時、胸が熱くなりました」
父不在のつらさや悲しさなど様々な思いをタックルに込めていたのだろう。
全国大会には3年間すべて出た。2年でレギュラーになる。福井は振り返る。
「全部、1回戦負けでした」
コーチの田仲、監督の松隈孝行での同校4回目の優勝は51回大会(1972年)。福井は中1だった。松隈は現監督の孝照の父である。
すべて初戦負けとは言え、2年時の55回大会は優勝候補同士の激突だった。相手は國學院久我山である。
「前半は勝っていました。後半、ミスボールを2回ほど拾われて逆襲されました」
スコアは3−18だった。
久我山は初優勝する。決勝で目黒(現・目黒学院)を25−9で破った。
<久我山を大いに苦しめた天理の堅守>
そう書いたのは『全国高等学校ラグビーフットボール大会 80回記念誌』。福井がそのひとりだったことは言うを待たない。シード制の導入は4大会後の59回大会になる。
大学では「新幹線ランパス」を味わう。
「これはきつかった」
5人ほどが横一列に並び、グラウンドの縦100メートルを走る。この往復を3時間以上続ける。当時、大阪から東京まで新幹線で行けば、このくらいかかった。
「自宅生がいたからダイヤがわかるんです」
近鉄の天理線がグラウンドの近くを走っていた。その列車で時間の判断はついた。
「関西リーグは万年2位でした」
同志社の黄金期だった。福井の4年時には大学選手権で初優勝する。明治に11−6。17回大会(1980年度)だった。この年、関西リーグでの対戦は7−35の記録が残る。
大学卒業後は、大阪でスポーツの指導員などをする。そして、天理市役所に入る。
「24の年でした。福祉やスポーツ関係の部署を回りました」
1984年の奈良国体で天理がラグビー会場になるため、市は競技を知る人物を欲した。推薦したのは田仲だった。
「私の人生は田仲功一さんありきです」
定年間際まで市職員として勤め上げた。感謝は今も尽きない。高1で田仲に出逢わなければ、また違った人生になっていた。
30歳になり、県協会にも呼ばれた。タグラグビーや大学を担当した。8年前には鴻ノ池陸上競技場で初めてトップリーグの試合を開催する。近鉄×東芝だった。
「大変でしたがなんとかできました」
サッカー専用のグラウンドだったが、ラグビーポール用の穴をあけてもらう。当時からリーグ名はリーグワンに、チーム名は花園LとBL東京に変わっている。
2018年、森田晃充から理事長職を譲り受ける。森田は福井の高校と大学のひとつ上だった。書記長からこの実務の長になっても、福井に権勢欲はない。昨年、すでに年度末での退任意向を周囲に伝えていた。そこに病魔が襲う。舌ガンだった。
「舌に痛みが走りました。最初は歯のかぶせが当たっていると思っていました。念のために見てもらったら、ステージ3でした」
昨年12月に手術。12時間ほどかかった。舌を半分ほど切った。幸いにして転移は見られなかった。年末には退院する。以前よりは若干、滑舌が悪くなった気はしている。
「プレマッチのミーティングで進行役としても迷惑をかけるわけにはいきません」
退任には当然、理事会の承認が必要であるが、本人の気持ちに変わりはない。
思えば、今も住まう奈良への道はラグビーを始めた中3に定まった。中学は大阪の菫(すみれ)。天理に進んだのは姉の小夜子のつながりだった。姉は飛び込みをしていたが、そのコーチが天理出身。ラグビーを勧められた。
「同期は5人。1年生が20人ほど入ってきてくれて廃部を免れました」
その2つ下の中心は藤田剛だった。大阪工大高(現・常翔学園)から明治に進み。フッカーとして日本代表キャップ32を得た。
中3から結ばれたラグビーとの縁は半世紀になる。その縁を切るつもりはない。
「これからもグラウンドに顔を出すことはあると思います」
楽しさのみで楕円球と関わる時間がやってくる。孫はじき4人になる。一緒に観戦できる。そこには至福がある。