関西発。この国のトライゲッターになる可能性がある。
植田和磨。
ポジションはウイング。愛称は名の「かずま」。近大の新3年生である。ラグビーの神さまが憑くような発言をする。
「僕はラグビーが好きです。走ったり、人を抜くのは楽しい。ずっと続けていきたいです」
その気持ちが一番大事。刈り上げに黒髪がかぶさる。細い目の両端は下がる。ぼっちゃん的な性格のよさが漂う。
植田は先月、7人制日本代表の予備軍であるセブンズ・デベロップメント・スコッド(SDS)の一員として、初めて海外遠征を経験した。期間は1月15日から半月ほど。選手14人中、唯一の学生だった。
「選んでもらえて、素直にうれしかったです。世界トップの選手たちと対戦できて、自分にとって自信になりました」
ニュージーランドとオーストラリアの2大会(HSBC ワールドラグビーセブンズシリーズ 2023)で計10戦、セブンズ日本代表として戦う。チーム成績の1勝9敗とは逆に、自身は成長させてもらえる。
「9試合に出させてもらえて、トライは5つ獲りました」
忘れ得ぬものになる。
SDSの前段として、関西での活躍がある。植田はルーキーイヤーから2年連続してリーグのベスト15に選ばれる。1年時はトライ王にも輝いた。2年時には3位。トライ数は11と8である。
中島茂は植田の長所を端的に挙げる。
「間合いの取り方がうまいですな」
近大の総監督は来月、76歳になる。楕円球人生は60年ほど。その眼力は正しい。
止まって、間合いを外す。左右に飛び、加速する。ディフェンダーの「わー」という敗北の叫びが背後から追いかけてくる。
「練習とかじゃなくて、感覚です」
感覚は天性。そもそも豊かな才能がある。
その才能に頼らず、自助努力もする。体重を15キロ増やした。報徳学園時代は身長176センチに対し、体重は70キロだった。
「ガリガリでした」
監督の西條裕朗は振り返る。
今、85キロ。その重さにするために、練習後すぐにグラウンドでめしを食った。
「伸弥さんが炊飯器とお米まで買ってくれました」
田中伸弥はOB。今は相模原(旧・三菱重工相模原)のフランカーである。時折、コーチ的な立場で練習に参加する。
炊き立てのごはんにレトルトのカレーやふりかけをかける。ゴールデンタイム。練習後30分以内なら栄養の吸収はより大きい。1学年上の半田裕己や同級生の藤岡竜也も参加した。スタンドオフとセンターである。
「なのに速くなったと言われます」
植田は破顔する。少々のタックルなら跳ね飛ばせるようになった。体重増加に筋肉も連動する。ベンチプレスの最高は報徳学園の頃から50キロ増の120キロになった。
その高校には経験者として誘われた。4歳、幼稚園の年少から中3まで明石ジュニアラグビークラブに在籍した。競技開始は友の誘いだった。スクールと高校の1つ上には山田響がいる。スピード豊かなフルバックは慶應の副将についた。
近年とみに才能が集まる報徳学園のOBとしてもSDS選出のよろこびは大きい。
「自分の代だけ、セブンズのユースアカデミーに選ばれませんでした。悔しかったです」
山田はもちろん、1つ下は山村和也、2つ下には伊藤利江人や海老澤琥珀がいる。3人は明治に進学、あるいは進学予定。植田は大学の2年間の鍛錬が花開いた形になる。
近大も神本健司から誘われた。当時はディレクター、現在は監督である。
「最初に声をかけてくれました」
入学時の主将は福山竜斗。このスタンドオフとともに試合に出る中で影響を受けた。
「意識が高く、人としても尊敬しています」
福山は近大を関西リーグ最高タイとなる2位に押し上げた。今は田中と同じ相模原に所属する。
ブルーのジャージーをまとって3年目の目標は明確である。
「関西制覇です。そうなれば必然的に大学選手権にも出場できますし、そこでベスト4以上にいきたいです」
1年時は選手権初戦で慶應に10−13で敗れた。58回大会だった。2年時は関西5位。選手権に進めなかった。雪辱のため、近大は先月11日からチームを始動させている。
創部を1949年(昭和24)に定める近大にとって、関西制覇はまだ成し得たことがない。まずはその位置にチームを押し上げたい。そのための植田の伸びしろはまだまだある。
SDSの遠征に参加して坂田貴宏に言われた。チームのS&Cコーチである。
「かずまはまだ速くなる」
フォームチェック、そしてスピードトレーニングは必須だが、名選手到達の可能性を示してもらえた。
すでにリーグワンチームによる勧誘も始まっている。注目選手は4年生になる前に進路が決まる。植田もその流れに乗った。「ラグビーが好き」の気持ちとともに、日本のエースになるべく、進化を続けてゆく。