思いが届いた。
人生で初めて秩父宮ラグビー場でプレーをした。
蜂谷元紹(はちや・もとつぐ)が三菱重工相模原ダイナボアーズの3番のジャージーを着て、東京サントリーサンゴリアス戦に出場した(1月29日)。
1月14日の東芝ブレイブルーパス東京戦でも、18番のジャージーを着て秩父宮ラグビー場のベンチに座った。
いつでもピッチに飛び出せる準備はできていた。
しかし、23-19と歴史的勝利を挙げる緊迫の試合内容に出番は巡ってこなかった。
そんな悔しい思いを経て、2週間後にデビューを飾った。
13-51。強力メンバーを相手に戦った試合には完敗した。
蜂谷は後半11分に入替でピッチを出るまでベストを尽くした。
「自分のヒットがうまくいかず、のっかられてしまった」と反省する点はあったものの、安定したスクラムも組めた。
「強い相手と戦えました。秩父宮でプレーするのも夢でした。でも、まだまだこれから。スタートできただけ」と、笑顔の奥に覚悟を感じさせた。
愛知県出身。春日井ラグビースクールがキャリアの始まりだ(小6時)。
北陵中、強豪・中部大春日丘高でプレーを続けた。花園でトライを決めたこともある。
父も学んだ中京大に進学してからも活躍は続いた。
ただ、注目されることの少ない東海学生リーグのチームに所属したこともあり、陽の当たる場所から一時は遠ざかった。
それでも諦めなかったから道は拓いた。
きっかけとなったのがコロナ禍の中でのアクション、Twitterを利用した『#ラグビーを止めるな2020』への投稿だった。
ウイルスの感染拡大により試合、大会の中止が相次いだ。高校生や大学生のアピール機会が減った。その状況を打破するための活動が広がる中で、自身もプレー映像を編集した。
青いヘッドキャップを被ったフロントローがダイナミックに突進し、スクラムでプッシュ、タックルで倒すシーンが詰まった投稿は、多くの人の目に触れた。
大学の試合での活躍や、ニュージーランド(以下、NZ)でのプレー満載のプレー集はインパクト大。そのお陰で、実際に興味を示してくれたチームがいくつかあった。
しかし、大学3年時に経験したNZ留学中に痛めた膝の影響で、各チームのトライアウトを受けることができなかった。
大学卒業後の進路は定まらなかった。
外部指導員として、高杉中ラグビー部(名古屋市)の活動に関わった。知人が所属する愛知教員クラブにも加わり、練習試合に出場したこともある。
そんな時に声を掛けてくれたのがダイナボアーズのスタッフだった。
練習に参加して力を示し、2022年6月にチームの一員となった。
「あまり目立つことのない東海地区のラグビー、自分のことを知ってもらいたいと思って」起こしたアクションが、3年越しで実った。
これからは、自分がプレーするたびに中京大や愛知教員クラブのプロフィールが人目に触れる。
それが嬉しい。
高校、大学と1番で、いま3番。「スクラムを自分の強みにしたい」と話す。
父の弟、叔父さんにあたる晶(あきら)さんは、明大、伊勢丹で活躍したLO。雪の早明戦(1987年)にも出場していた。
デビュー戦ではプレッシャーを受けるシーンもあった。しかし、トップチームとの試合にわくわくしている自分がいた。
NZ留学時、ワイタケレクラブでプレーした。その当時、強豪クラブと戦う際にいつも闘志が燃え上がった。リーグワンでは、そんな気持ちにいつもなれる。
しあわせだ。
中学時代は、現在リコーブラックラムズ東京に所属するSH南昂伸(御所実→大東大)と同期。南がSOで蜂谷がWTBだった。
得意のボールキャリーの土台には、持って生まれた下半身の強さがある。
思っていた通りのエキサイティングなステージに立ち、思う存分暴れる。