浦敏明は2か月後に76歳になる。長崎北陽台のコーチである。
「あと何年できるか…」
冗談と謙遜ともつかぬ言葉を交え、目じりを下げる。しわが刻まれた丸い顔は高僧と見まがう。その日焼けは半世紀以上グラウンドに立ち続けている履歴書でもある。
自ら創部したこのラグビー部は年末年始の高校全国大会の常連になった。出場は5年連続21回。長崎県では15回の諫早農を抑え最多である。今回の102回目の大会は8強戦で天理に5−8で敗れた。
「このチームにとっては精一杯だったと思います。よう頑張ってくれました」
彼我の力を冷静に分析できる。幾千幾万の試合を見つつ、保健・体育の教員としても高校生の成長に携わった。ラグビーを始めたのは同じ県内の佐世保工に入学後。それまでやった相撲がなかったからである。
今、浦は長崎北陽台のFW強化を請け負う。
「セットプレーや体の当て方なんかを教えます。戦略的なことは口を出しません。品川先生に任せています」
品川英貴は監督。28歳下の教え子を「先生」と敬う。集団行動では前に出ない。自分の今の分限を守る。
この元日、3回戦では尾道に17−15と勝利した。3トライすべてモールを軸に奪った。浦の面目躍如たる試合だった。
「1年生は100キロの子が2人も入部してくれました。そんな子たちが来ることはめったにありません」
浦は目を細める。体格も才能ということを知る。プロップの田崎凜太郎とロックの下田秩(ひいづ)はレギュラーになった。2人とも地元の長与ヤングラガーズの出身である。
「この1年生は受験してくれた18人全員が受かってくれました」
スポーツなど2つの推薦と一般入試のどれかで入学をしてきた。それまでは1学年10人を切ることも珍しくなかった。県内トップの難関校。偏差値は70に近い。3年生16人の半数が共通テストからの国公立大を目指す。
自慢すべきOBのひとり、中尾隼太も国立の鹿児島大の出身である。現在はBL東京(旧・東芝)に在籍。この27歳のスタンドオフは昨年11月、フランス戦で日本代表デビューを飾った。パスやキックに秀でる。
浦がこの学校に赴任したのは1980年(昭和55)。開校2年目だった。部を作り、監督になり、母校の日体大譲りの猛練習で強豪化させる。ハイライトは14年後の74回大会。準優勝する。相模台工(現・神奈川総合産業)に12−27だった。87回大会は4強敗退。準優勝の伏見工(現・京都工学院)に8−17だった。
教員としての振り出しは大村園芸(現・大村城南)。11年を過ごした。この間、全国大会出場を決める。55回大会だった。長崎北陽台に異動する4年前である。浦は部長兼監督。指導力は若き頃から非凡だった。この時は1回戦敗退。石巻工に4−17だった。
長崎北陽台では教頭の4年を含め、在校は24年の長きにわたる。西彼杵(にしそのぎ)の校長を3年つとめ、60歳定年を迎えた。
「そのあとは県の高校スポーツトップアドバイザーにつきました」
8年前の国体のためだった。その間も長崎北陽台との関りは続いていた。
昔気質で自分を誇らない浦がわずかに口にしたことがある。浦は離島赴任がない。県立校の教員は原則、島での教務が求められる。
「それがなかったのは2人だけです」
もうひとりは小嶺忠敏。国見のサッカーを冬の選手権で戦後タイの6度の優勝に導いた。同等の重みが浦にはあった。
離島赴任がなかった、ということはラグビーのみならず、校務にも励んだ裏返しである。定期テストで欠点を取れば部活停止になる。
「ラグビーの前に北陽台の生徒であれ、です。高校スポーツは絶対に教育です」
そう言い切れるだけの日々を重ねて来た。
教育者になることは日体大で定まる。佐世保工の恩師は松崎哲治。OBだった。当時、佐世保から東京までは23時間かかった。今、飛行機なら2時間ほどで羽田に着く。
「西海(さいかい)という急行がありました」
学割や急行料金を含め片道1550円。サラリーマンの初任給が2万円台の頃である。
日体大では両端のインゴールまでボールを数人でつなぐランパスの洗礼を浴びた。
「多い時は50本。往復で1本です。きついとかいうのは当たり前でした」
浦が生まれたのは戦争が終わって2年後。その時代の子は耐久力が強かった。
現役のころは172センチ、70キロ。2年生からフランカーで公式戦出場を果たす。この1966年は日体大が大学選手権に初出場した年だった。3回大会である。8校制だった大会は4強敗退。法政に5−19だった。4年ではフッカーに移り、副将をつとめた。
その日体大を出て、大村園芸を経て、長崎北陽台に来た。このラグビー部との関りは43年。昨年、孫の勝矢紘史(こうし)も卒業させた。今は早稲田のナンバーエイトである。
「チームを優勝させたいなあ、という夢はあります。その反面、すごいなあ、という思いもあります。ここまでやっている。もちろん、私ではなく、生徒たち、品川先生がですがね」
浦は朝練習の時などには電車通学の部員たちやその荷物を車に乗せ、坂を駆け上がる。最寄り駅のJR高田(こうだ)から学校までだ。最近、愛車はプリウスから軽に変わった。
「今は年金暮らしたい」
方言が出る。表情が崩れる。
コーチング以外にも浦の献身は続く。その愛するジャージーは群青である。
「スクールカラーです。いい色でしょう」
この色をさらに鮮やかにさせたい。浦はこれからも、孫よりも年下の部員たちと長崎北陽台のラグビーをつきつめてゆく。