灘高校が来年1月の新人戦から15人制ラグビーに復帰する。神戸にあるこの私立はほぼ中高一貫校であり、また日本トップの進学校でもある。
監督の武藤暢生は端正な顔全体を崩す。
「生徒たちがよく頑張って部員を増やしてくれました。ありがたいことです」
武藤は保健・体育の教員でもある。チームが単独で15人制の公式戦を戦うのは2016年の秋以来、7年ぶりになる。
功労者たちは17人に膨れ上がった1年生。全部員でもある。嶋田航太はSOやFBをこなす。マッシュルームのような長い髪をなびかせる。
「去年くらいからひとり入る、そうしたら、その子と仲のいい子も入る。輪になって集まってきました」
別段、特別なことはない。同級生にはほぼ初心者だけのラグビーが輝いて見えた。
嶋田は中学受験を灘と東大寺で迷った。
「灘にはラグビーがある」
それが理由づけになった。
「小学校の時、ラグビースクールの友達とタッチフットをしました。楽しかった。その時は勉強との兼ね合いでできませんでした」
奈良の生駒から片道1時間40分ほどをかけて通う。時間だけを考えれば、東大寺なら半分以下ですむ。
「中学の時は疲れて無理やったけど、今は電車の中で勉強しています」
灘4年目。その長さに慣れる。
嶋田と津田昊生(とおい)、佐野僚(つかさ)の3人は中1での入部。いわば「オリジナル・スリー」だ。津田は唯一の経験者。幼稚園時に南大阪ラグビースクールに入った。
「兄がやっていました。タッチフットに特に楽しさを感じました」
津田はパス回数が多く、経験が必要なSHを任されている。
単独になったことを喜ぶ。
「めっちゃうれしいです。合同は色々なことを相手の先生が決めたりしていました。今は自分たちですべて決められます」
この秋の全国大会予選までは六甲学院と合同チームを組んでいた。
6年前、最後の15人制での出場は秋の兵庫県予選。96回大会だった。16強敗退。関西学院に7−70。エースは3年生FLの中田都来だった。灘は3年春に引退するが、中田は続けた。大学は現役で筑波の医学群に進み、2年生からレギュラーをつかむ。筑波では医学生が体育会ラグビー部で正選手になるのは1973年の開学以来、初めてのことだった。
オリジナル・スリーの佐野は6年前のことは知らない。入学前、小4のころのことである。ただ、中田と同じように体の鍛え上げに余念がない。全体練習後、校内のウエイトルームにひとりこもる。176センチ、92キロのサイズでPRやHOをこなす。
「小学校の時は特に何もしていません。中学では新しいスポーツがしたかった。ラグビーは体格が生かせます。ぶつかるのも好きです」
佐野はユニークである。武藤は笑う。
「ずっと素振りのマネをしています」
虎キチ。推しは近本光司。外野手だ。
「僕にとって野球は見るスポーツ。ラグビーはやるスポーツです」
今年は10回ほど甲子園で応援した。
佐野は武藤のすごさを実感している。
「先生が1回、タックルの見本を示してくれました。80キロくらいある選手が簡単に弾かれました。やばいな、と思いました」
細身の武藤は現役時代、FLだった。
灘に近い県立校、御影(みかげ)で競技を始めた。日体大では群青ジャージーに身を包み、早慶明のビッグ・スリーと戦う。その長男、航生(こうしょう)は関西学大の1年生FBとして、すでに公式戦に出場している。
武藤は入部しやすい状況を作っている。定期テストの前は2週間、活動を休む。今月にあった冬の期末テストも例外ではない。
「山口先生の時からそうでした」
山口安典(故人)は前任監督。日体ラグビーの先輩、同じ保健・体育の教員でもあった。武藤の新卒赴任は2001年のことである。
その当時、この学校への奉職の仕方はユニークだった。前任者が後釜を探し、学校の承認を得る。武藤は山口のお眼鏡にかなった。御影の監督だった松原忠利、そしてその教員仲間だった父・眞一と本人を含めた4者で将来の話し合いをする。松原は現在、関西ラグビー協会の理事長をつとめる。
ただ、灘の保健・体育教員は日体大の卒業生でなければならない。そのため、上京した。現在も全5人がそうだ。専門は柔道2、水泳1、バスケット1、そしてラグビー。「柔道の父」と言われる嘉納治五郎が学校設立に加わったため、柔道を教育の軸に据えている。
武藤は試験前クラブ停止の期間を含めて、山口の勉強中心のやり方を踏襲している。校内外の兼部、塾通い、長期の休部なども差し支えない。練習は放課後の2時間ほど。オフは週2日。7時間授業の火曜と試合のない日曜。グラウンドは人工芝のフルサイズをサッカー部と半々で使う。
灘の創部は1946年(昭和21)。前年、太平洋戦争が終わった。県内では神戸、兵庫に続く歴史がある。全国大会の出場はないが、近畿大会には4回出ている。最後は1974年。山口の時である。
学校創立は1928年。今春の東大合格者数は92。全国3位。開成の193、筑波大駒場の96に次ぐ。うち最難関と言われる理Ⅲ(医学部)は10と2校の6に差をつける。灘のはやりは「東大か医学部」。一学年は高校入学、いわゆる「リベンジ組」の50人を加えた250人ほど。そのうち約4割が東大に入学する。
この学校を西條裕朗はリスペクトする。監督として報徳学園を率いる。この同県内の強豪は開催中の102回全国大会で優勝候補に推されている。この夏、ふらっと武藤が飲んでいるところに現れた。そして、熱を発した。
「灘はラグビー部を堅持して、イートンやラグビー、ハローなどパブリックスクールと定期戦を組まないと。それができるはずだ」
ラグビー発祥の英国の名門校と交誼できる実績と歴史を認める。その上で自己犠牲の精神やフェアネスを競技から学んだ彼らが、その海外の縁を生かしながら、得意の分野で世界をリードしてゆくべきだ。そう西條は考える。ラグビーの強弱はさしたる問題ではない。
その灘の再スタートといえる6年ぶりの15人制公式戦は新人戦(近畿大会予選)になった。1回戦の相手は芦屋。年明けの1月8日。全国大会決勝の翌日である。灘のグラウンドで午前10時にキックオフされる。
芦屋とは9月に練習試合をやった。7−60。唯一のトライは佐野だった。武藤は話す。
「この時は1年生だけでしたが、次は2年生も入って来ます。どこまで食らえつけるか」
今、勝ち負けは関係ない。15人が深紅のジャージーを着て、試合することに意義がある。この戦闘服は山口の時から不変である。
後輩の中学生たちにもラグビーの楽しさを伝えて、さらなる部員を確保したい。そして、15人での大会参加に永続性を持たせたい。
この国ために、世界のために。