埋没していた。
池澤佑尽(いけざわ・ゆうじん)の高校時代である。東福岡ではレギュラーはおろか、30人のメンバー入りすらなかった。
それがどうだ。関大に入学後、頭角を現す。関西Aリーグ所属のチームにおいて、この3年生はレギュラーを勝ち取った。「司令塔」と呼ばれるスタンドオフである。
たれ目っぽい池澤は破顔する。
「試合に出られるのは楽しいことです」
マスクは甘い系。身長は180センチ。軽いアイドルには負けない容姿も持つ。
その躍動は本人の努力を示す。
「自信があるのはキックです」
利き足の右から蹴り出されるボールは50メートルを超える。そこを特に磨いた。
「ひとりで練習をしていました。30分くらいでしょうか。ネットに向けて蹴る中で、当てる感覚が身につきました」
今年の関大はハイパントやライン裏への短いキックを使う。エリア獲りはもちろん。その中心に池澤はいる。
秋のリーグ戦は3戦目の京産大戦を除き、6試合に先発した。30−26と勝利した関西学院戦ではサヨナラ逆転トライを挙げる。ラインに圧がかかっていると見すますや内側に切り込み、3人をかわす。視野の広さやステップの切れもある。
そのラグビー歴は古い。始めたのは4歳。兵庫県ラグビースクールだった。中学卒業まで続けた。その長さを証明するように、尊敬するのは同ポジションのジョニー・ウィルキンソン。現役引退は池澤の中1の時である。
ジョニーはゴールキック時、両手を前に出したポーズで知られた。
「体を張るし、自分も同じようにキックにフォーカスしています」
イングランド代表キャップは91を誇る。
ジョニーのような世界的な選手になるべく、高校は神戸から福岡に飛んだ。
「トップを目指す選手が集まります」
東福岡は冬の全国大会優勝6回。天理と並び歴代4位の記録を打ち立てている。
住まいは学校の運営する寮だった。
「野球や剣道、バレーの子たちもいました」
ラグビー部の同期は行徳冠生、下江康輔、高本とむ、西濱悠太、服部峻、松岡大河。7人は同じ釜の飯を食った。
「みんな仲がよく、ずっと一緒でした。でも、最後の全国大会で下江と僕は30人のメンバーに入れませんでした。下江はケガがなかったら、外れていなかったと思います」
落ち込む池澤に松岡は言葉をかける。
「おまえと下江が入れなかった分、俺たちが全国を獲ってくる」
松岡は同じ関西出身。出身中学は大阪の茨田北(まったきた)だった。
「自暴自棄になるとか、よこしまな気持ちにならずにすみました。松岡をはじめみんなのおかげです。素直に応援できました」
高校最後の99回全国大会は4強戦で優勝する桐蔭学園に敗れた。7−34。頂点までたどりつけなかったが、池澤に悔いはない。メンバーは自分の分もやってくれた。
池澤がメンバー入りできなかったのはスタンドオフとして経験の浅さもあった。入学時はスクラムハーフ。そこから10センチ以上も身長が伸びた。高2で監督の藤田雄一郎に「どうや?」と転向を打診される。
「自由に動けて、楽しそうやなあ、と思いました。背が伸びて、下のボールをさばくのがしんどくなってきたこともありました」
背の急伸は遺伝である。父の弘喜は192センチ。大型ロックだった。宮崎・高鍋から明大、神戸製鋼(現・神戸)と進んだ。当時、チームは国内トップ。7連覇の最中だった。
「父の存在は、ありがたいなあ、と思います。父がいないとラグビーをやっていません。それに身長は父ありき、ですから」
父の公式戦出場は少ない。『神戸製鋼ラグビー部 70年の軌跡』によると2。ライバルが多かった。先輩には林敏之や大八木淳史がいた。日本代表キャップは38と30。外国人選手としてはサイモン・ウェンズレーやマーク・イーガンらもいた。全国社会人大会(リーグワンの前身)と日本選手権の7連覇が始まったのは1988年度だった。
最強チームにいた父の血は体重にも宿る。高校時代より10キロ増の80キロになった。そこには母の愛も加わっている。
「大学は母の作ったごはんで体を大きくしたかったのです」
関大の選択はその思いに添う。専用寮がないことを逆手に取った。今ではFWの選手に対しても当たり負けしなくなった。
来年は最終の4年生。池澤にはリーグワンでラグビーを続けたい希望がある。
「できるなら、上でやりたいです。父もそうでしたから」
同じ高みでのプレーを目指す。
そのためには勝たないといけない試合が控える。12月11日、関大は入替戦を龍谷と戦う。下部のBリーグに落ちれば、各チームの採用担当の目が届きにくい。
代表クラスの同級生はすでに争奪戦が始まっている。しかし、希望が重複したり、ケガがある。チャンスは残る。この11日は、チームのためはもちろん、自分のこれからもかけて戦わなければならない。