赴任先で次々にラグビー部の創設、復活に携わってきた。
2022年、宮崎県の県南地区に高校ラグビー部が誕生した。日南振徳高校ラグビー部だ。
部員は5名。2022年は創部初年度ながら合同チーム(日南振徳高、日南高、日南学園高、都城農業高)でセブンズ大会に出場。15人制では花園常連の県内強豪・高鍋高と戦った。
「それまで日南地区に高校のラグビー部がなく、ラグビーをしたい中学生は市外に出るしかありませんでした」
そう話すのは、日南振徳ラグビー部の佐藤清文監督(50歳)だ。ラグビー指導歴は約20年。4校目の日南振徳には2021年にやってきて、今年で2年目になる。
「宮崎の県南に高校の受け皿がないので、ぜひ県南に高校ラグビー部を復活させたいということで、私と飯干先生(顧問)に白羽の矢が当たりました。2021年は3人のラグビー同好会から始まり、今年から部になっています」
佐藤監督は、宮崎県内に楕円球の種を蒔いてきた開拓者だ。
過去赴任した3校中2校で、ラグビー部を創設。1校目は教員試験合格後の1999年に着任した都城西高、2校目は続いて2005年に赴任した本庄高だ。
新しい土地を開墾する作業は途方もない。佐藤監督はまず授業でラグビー愛を語るという。
「日南振徳では去年、まず授業でラグビーの映像も見せながら『人として大事なものを教えてもらえるのはラグビー』『新しいスポーツにチャレンジしたい人は是非』と熱い話をしました。そうしたら3人、入ってくれました」
佐藤監督は国士舘大学でラグビーを経験。4年時にはウイングとして公式戦に出場した。
高校時代(宮崎・延岡高)は野球に打ち込んでいた。ただ当時から心は楕円球に傾いていたという。
「高校時代に雪の早明戦などを見ながら『ラグビーかっこいいな』と思っていました。明治大学の吉田義人さんが憧れでしたね。高校時代は最後まで野球をやり切って、大学から念願のラグビーを始めました」
大学卒業後は教員を目指して宮崎に帰り、挑戦5回目で教員採用試験の狭き門をくぐった。
その後赴任した前述の都城西で、最初のラグビー部を創部。しかし公式戦では「一度も勝った記憶がありません」。公式戦初勝利は2校目の本庄高時代だった。
「2年目の平成18年だったと思いますが、高鍋の小丸河グラウンドで、10人制で初めて勝ったんですね。初めて1勝したので、一人でお酒を飲みながら嬉しかった思い出があります。翌年は高鍋農業さんとの合同で、10人制で優勝もしました」
すでにラグビー部が存在していた唯一の赴任先が、3校目の宮崎工業高だ。
宮崎工業に赴任が決まった佐藤監督には期待があった。宮崎工業は1年前で約30人の部員がいたはずだ、今度こそ人集めの苦労はないだろう——そうして2012年に赴任したが、予想外の光景が待っていた。
「初めて練習に行ったらグラウンドに4人しかいなかったんです(笑)。1年前は30人ほどいたんですが、1年間指導者がいなかったことで気持ちが離れてしまった。期待していたんですが——、自分の人生はずっとこんな感じなんだろうなと思いました」
しかしこの状況から宮崎工業は復活を遂げる。
佐藤監督の勧誘もあり1年生7人が入部し、2012年度は13人から再スタート。その年に同校グラウンドで練習していた宮崎ラグビースクールから勧誘した中学生は、その後日本代表プロップになった。浦安D-Rocksで副将を務める竹内柊平だ。
その竹内の入学後、部は掃除に力を入れた。以前から「日常生活での当たり前を当たり前に」を指導ポリシーのひとつとしていたが、研修で訪れた御所実業高の竹田寛行監督から刺激を受け、生活面の規律をより重視するようになった。
竹内が副将を務めた2015年度、宮崎工業は躍進する。新人戦や高校総体でベスト4に入ったのだ。さらにその年の花園に出場した鹿児島実業にも練習試合で勝利した。
しかし最後の花園予選で、まさかの1回戦敗退を喫してしまう。
相手は新人戦と高校総体で、シード校ながら宮崎工業に2度負けていた延岡工業。0−21という完封でリベンジされた。
期待していた代の1回戦負け——。佐藤監督は指導者人生で最大の悔恨を味わった。
「宮工(宮崎工業)は『高鍋に勝つ』と先を見ていました。そうしたら『宮崎工業には絶対に負けない』という意気込みだった延岡工業さんにリベンジされてしまった。実は1年前、2年前と花園予選の前にキャプテンが怪我をしたことが頭をよぎって、怪我をさせたくないと思い、試合の週にしっかり身体を当てなかった。それが全ての敗因ではありませが——、あの負けは、私の責任です」
ショッキングな敗戦は後を引いた。前を向かせてくれたのは、次の代の教え子たちだった。
「竹内たちの次の代で、最後はまた延岡工業さんに負けたんですが、完封負けではなく10−15の1トライ差でした。部の伝統が一歩進んだ、と感じました」
宮崎工業での指導は2020年度が最後になった。その年、同校での最後の教え子たちは、34年振りの花園予選ベスト4を達成する。
9年間かけて、ようやく花園県予選の4強に辿り着いたのだ。
2022年度の花園に鹿児島県代表として出場する加治木工業は、春夏に定期戦をする間柄。佐藤監督が「私の目標」と語る前指揮官、細樅(ほそもみ)勇二監督(現・奄美高監督)が率いる同校との切磋琢磨も力になった。
翌2021年2月には、同じく34年振りに九州新人大会に出場。あの東福岡と対戦し、0−105で敗れた。
「9年間でやっと上で戦えるチームになって、部員も最初の4名から31名になりました。九州の新人大会であの東福岡さんとも戦えて、『お前たち凄いな』と生徒に言いました」
そして2021年、佐藤監督は4校目の日南振徳高へ向かった。
日南振徳では同好会を立ち上げるところからのスタート。またイチからだ。開拓者はまたも無人の野に立った。そして最初のクワを振り上げ、乾いた大地に突き刺すのだった。
「イチからというより、いつもマイナスからのスタートという印象ですね。涙が出そうになるくらい辛い時もありますよ」
それでもラグビーに奉仕する理由は何なのか。個人としての理由を訊ねると、僕には負けず嫌いなところがあって、と佐藤監督は言った。
「負けたくないという気持ちが強いですかね。ここへ来てからもそうです。どこへ行ったとしても、もう一度這い上がってやろう、という気持ちが沸々と湧いてくるんです」
県北の延岡で過ごした幼少期は、俊足が自慢だった。毎朝の日課は、家の前の土々呂(ととろ)臨海公園の砂浜を走ること。かけっこでは誰にも負けたくない。そんなスイッチが入ると走り出さずにはいられない少年だった。
あの日の少年は今も走っている。全力で日々を走っている。当面の目標は、単独チームを作り上げることだ。
「15人の単独チームで試合に出たいですね。ただ5年は掛かると思います。そこに近づけるように、まずはもう一度、人集めからですね」