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【ラグリパWest】成果を携え、去る。吉村太一 [花園近鉄ライナーズ/前チームディレクター]

2022.11.26

12年間、籍を置いた花園近鉄ライナーズから近鉄リテーリングに異動した吉村太一さん。花園近鉄ではチーム3番手のチームディレクターとしてリーグワンのディビジョン1(一部)初昇格に貢献した。計21年通った花園ラグビー場にて。「ここでよく観戦していました」



 上げて、去る。格好いいな。

 吉村太一は花園近鉄ライナーズを初昇格させた一員だった。チームは来月から、リーグワンのディビジョン1(1部)で戦う。

 その成果を携えて、近鉄リテーリングに異動する。辞令は11月21日付だ。
「納得しています。今回は12年もこのチームにいさせてもらいましたから」
 47歳。黒いセル眼鏡の奥の目は細められる。穏やかな笑みが広がる。

 このチームに現役引退後に戻ってきたのは2010年。最後はチームディレクターになった。ラグビー協会との窓口になり、部内の調整をする。部長の中川善雄やGMの飯泉景弘をチーム3番手として支えてきた。

 吉村のいたラグビーや異動先のリテーリングは近鉄グループホールディングスの傘下である。吉村はホールディングスの大卒総合職として、鉄道や不動産など150近い会社を束ねる社長になれる資格を有している。現在の職階は課長。今回は定期異動だった。

 新しい勤務先は百貨店以外の流通を担う。目につくところでは駅中のファミリーマートや駅そばの成城石井、高速道路のサービスエリアなども担当する。オフィスは東花園から大阪の上本町に変わる。

「戻って来い、と言ってもらえました。評価してもらえてうれしいです」
 ラグビーの前はリテーリングに4年いた。人力が不可欠な仕事のため、店頭に立って、売り込みやチラシ配りなどもした。

「宝くじを売ったこともあります」
 荻巣史恭(おぎす・ふみやす)に「こんなとこにおるのか」とびっくりされた。荻巣はラグビーの元顧問で、ホールディングスの前身、近畿日本鉄道で副社長にまで上り詰めた。

 ラグビーマンと対峙した12年。吉村の人に対する接し方や洞察力はさらに磨かれる。
「これからはなんでもできる、っていうか、なんでもせなあきません」

 吉村の入社は1999年である。
「僕に声がかかる前、同志社から総合職の採用を予定していました。その選手が他社に行った。それで話が来たのです」
 運を持っている。吉村は龍谷の5年生スタンドオフだった。

 この年は創部70周年でもあった。秩父宮のお声がかりで作られた花園ラグビー場の開場、1929年(昭和4)に合わせている。トップチームでは神戸製鋼(現・神戸)が1年早いだけである。

 その記念試合が5月、三洋電機(現・埼玉)を招待してあった。吉村も出場した。スコアは29−57。周年を祝えなかった。
「情けないくらい何もできず、そのあとヘッドコーチに口をきいてもらえませんでした」
 新入社員の研修があり、グラウンドに出られなかったことが大きい。

 一念発起して練習に精を出す。
「いつも最後までグラウンドにいました」
 奈良の自宅に帰るのは、日付が変わる時もあった。キック、広い視野、ギャップを突くランは磨き抜かれ、2年目から公式戦に出場する。5年目に主将になった。

 思い出すのは4年目、2002年度のシーズンだ。翌年度から三地域を統合したトップリーグに改組することが決まっていた。新リーグ昇格もかけた55回目、最後の全国社会人大会は混迷を極める。

「近鉄は関西リーグで優勝したヤマハ(現・静岡)に6トライ以上を獲り、2トライ差をつけて勝たなければなりませんでした」

 その難関をクリアする。38−26だった。
「やり抜く大切さを学びました」
 4チーム参加の予選リーグを1位通過し、元年のトップリーグ加入が決まった。

 現役引退は2007年度末だった。
「ケガも多くなってきたし、重光が出て来たこともありました」
 32歳。選手として9シーズンを過ごした。重光泰昌は大学の後輩でもあった。現在は花園近鉄のアタックコーチである。

 そのラグビー人生が始まったのは中学入学後である。奈良の郡山東だった。
「サッカー部がなかったのです」
 高校は勧誘もあって、京都外大西に進む。全国大会出場はなかったが、フルバックとしてチーム唯一の国体の京都選抜入りをする。

 大学は龍谷を選ぶ。期待感があった。
「これから伸びるかなあ、と」
 同期は入社の話を持ってきてくれた辻本裕や高木重保、下沖正博だった。フッカーの辻本とプロップの高木は、日本代表キャップ1と5を得る。ロックだった下沖はNTTの新チーム、浦安D-Rocksの社長になった。

 吉村は2年から公式戦出場。4年時の1997年にはリーグ戦の盟主だった同志社から初勝利を挙げる。77−19と圧倒した。関西3位で出場した大学選手権は1回戦で21−62と法政に敗れる。34回大会だった。

 近鉄では選手とスタッフとして合計21年を過ごした。
「幸せなラグビー人生だと思います。好きなことをさせてもらえた。入社も含め、会社には感謝しかありません」

 そして、最後の言葉を紡ぐ。
「ラグビーは勝負事です。これからどう勝つ集団に変わっていけるか、ということを模索していってほしいと思っています」

 吉村のこれからの奮闘はラグビーの行く末に反映される。会社の中で栄達し、発言権が出てくることはラグビーの保護、発展につながる。OBの部長級は藤田智之ら4人。藤田は新職場での上司になる。

 チームへの恩返しの時がやって来た。


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