3番の役目も、4年生の責任も果たした。
倉﨑大丞(くらさき・だいすけ)がスカイブルーのジャージーを着て、よく働いた。
11月5日、筑波大は青山学院大を相手に38-14と勝つ(熊谷ラグビー場)。
関東大学対抗戦Aで今季開幕4連敗だったチームは、ついに勝利を手にした。
その試合で勝利に貢献したのが3番の倉?だった。
先発してスクラムで押し、ボールキャリー、タックルと体を張り続けた。
後半35分にはトライも挙げた。
その直後、入替でベンチに戻る時には嶋﨑達也監督や仲間から労いの言葉をかけられて笑顔になった。
代わりに入った内田康介が負傷したため再度戦列に戻ったから、フルタイムの笛は仲間たちとピッチの中で聞いた。
倉﨑にとっては、今季2度目の先発だった。
関東大学対抗戦に出場したのは、4年生になった今季が初めて。先発は9月18日の早大戦に続いて2試合目だった(明大戦、帝京大戦は途中出場)。
スクラムでの優勢も勝因のひとつとなった試合を振り返り、「(4連敗という)苦しい状況の中で3週間準備してきたものを100パーセント出せてよかった」と表情を崩した。
トライに関しては、「前があいていたので、(SO楢本)幹志朗を呼んだらパスを放ってくれた。ボールを置いただけです」と照れた。
初先発だった早大戦は悔いが残った。前半40分だけで退き、チームは17-23と敗れた。スクラムも劣勢だった。
その試合を振り返り、「緊張して、自分の力を出し切れませんでした。プレッシャーに負け、(試合の)結果も悔しかった」
だから、青学大戦には「今度こそ力を出す」と覚悟を決めて臨んだ。
3年生までは、主にCチームでプレーしていた。成長のきっかけは肉体改造だ。
3年時の12月に腰の手術に踏み切った。それまでヘルニアに苦しみ、練習も試合も痛みの中でおこなっていた。
鍛え込むことができなかった。
「手術をきっかけに、自分の体を見つめ直しました。足りていないものを知り、あらためて体幹と下半身を鍛えました。トレーナーさんと一から体を作り直した結果、スクラムが安定してきました」
福岡の筑紫丘高校出身。筑波大には同郷の選手たちが多い。「博多弁が普通に飛び交っています」と笑う。
同期の同郷の選手たちには、下級生の頃から試合に出場してきた選手たちもいる。
「刺激をもらってきました」
自分も試合出場できるようになり、内面にも変化が起こった。「メンバーに選ばれたことへのプレッシャーや責任を感じる」と話す。
4年生だ。「ラストシーズンです。チームの目標は日本一。体を当て、スクラムで責任を果たしたい。そして、楽しんでプレーしたい」。
試合出場を重ねる中で、手応えを感じる時もあれば、納得できないこともある。
しかし、そのすべてが成長につながっていることに疑いはない。
初出場時の相手は明大だった。スクラムにプライドを持つチームだ。途中出場で相手と組み合う機会は2度しかなかったが、しっかり組めた。自信になった。
しかし、早大戦では劣勢に。スクラムは奥が深い。
経験を重ね、相手どうこうより、自分たちの形を貫くことが大事と気づく。青学大戦では、それを実践できた。
「筑波は3番が内を向くと弱い。青学の内へのアングルに対し、13時(右斜め前)の方向に出られるようにしました」
全員でまとまり、フロントローの面を揃え、低く組むことも、筑波スタイルの生命線だ。
父がラグビー好きで、スクール(平尾ウイング)に入ったのが小学1年生の時。中学では筑紫丘ラグビークラブジュニアスクールでプレーを続けた。
筑紫丘高校では中村総一郎監督に指導を受けた。筑波大は、同監督の母校だ。
高校時代はOBで早大、九州電力で活躍した吉上耕平コーチにFWプレーを教わる幸運もあった。
「幼い頃に憧れていた方です。いろんな知識やスキルを教わりました」
進学先を決めた際、「自分の選んだ道が正しいと信じて頑張って」と言ってもらえたことを覚えている。
大学卒業後は食品メーカーに就職する予定。秋の訪れとともに残り試合が少なくなってきたシーズンを、「日本一を目指せる人生は最後」と噛み締めて過ごしている。
「チームメートが大好きです。残りの時間、今年のチームスローガン、『バチバチ』を体現するプレーを最後まで続けていきたい。接点で泥臭く。きょうできたことを次の試合でも続け、大学選手権まで体を張り続けます」
「引退する時、(自分は)どうなっていてもいい」の言葉に、人柄が詰まっていた。