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「うん、楽しかった」。ラグビーを失った日々からの復帰。小西泰聖[早大4年/SH]

2022.10.05

2000年9月1日生まれ、22歳。早大スポーツ科学部4年。(撮影/松本かおり)

1年8か月ぶりに赤黒ジャージーを着た日体大戦。大田尾竜彦監督は「大学4年のシーズンは何がなんでもやると、強い決意を感じていました。自分でジャージーをつかみ取った」。(撮影/長岡洋幸)



 試合後、友人、知人からたくさんのメッセージが届いた。
 同い年の明大のPR、葛西拓斗からは「楽しかった?」と来た。
「うん、楽しかった」

 早大のSH小西泰聖(たいせい)が、10月2日の関東大学対抗戦Aの日体大戦でプレーした。
 102-0と圧倒した同試合に後半23分から出場し、スピードあるプレーで勝利に貢献した。

 チームはラスト20分で6トライを挙げた。
 試合を終えたときにスタンドから聞こえてきた拍手、声援。それらを熊谷からの帰りのバスの中で思い出し、久しぶりに心地よい余韻に浸った。

 赤黒のジャージーを着て戦ったのは2年生時のラストゲーム、大学選手権の決勝(●28-55 天理大)以来630日ぶりだった。
 その試合で先発したのを最後に、小西の姿は早大のすべてのグレードの試合メンバーから消えた。
 3年生時の試合出場記録はない。

 2年生のシーズン(2020年度)後に体調を崩した。
 練習ができるようになったのは今夏の合宿前からだ。
 最初はパスだけ。やがてコンタクトプレーも再開と、復帰への階段をゆっくり昇った。

 8月27日、合宿中に同志社大とのCチーム戦で戦列に復帰し(途中出場)、翌日のB戦でもベンチスタートからプレーした。
 シーズンに入り、9月11日の明大戦、同25日の東海大戦と、関東大学ジュニア戦でも途中出場をする。
 その結果、日体大戦での出場機会をつかみとった。

 桐蔭学園時代は選抜大会で頂点に立ち、花園でも躍動した。
 2018年にはブエノスアイレスで開催されたユースオリンピックに参加し(7人制ラグビー)、南アフリカを撃破して銅メダルを獲得している。
 そんなトップアスリートが、「試合前は緊張しました。自分にできることだけをやろうと思いました」と話した。

「ミスもありましたが、パスもできたし走れた(自ら長い距離を前進)。何もできなかった、ということはありませんでした」
「感覚的にはデビュー戦」と言うものの、持ち前のパスワークとランプレーを見せ、チームを最後まで走らせた。

 疲れがとれない。
 パフォーマンスが上がらない。
 そんな不調を感じ、病院へ向かったのは3年生になる前のオフ期間だった。
 検査を経て、4月、5月は入院生活を送った。ドクターからは、ラグビーをやめるように進言された。

 絶望した。
 食事制限。トレーニングもできない。72キロあった体重は50キロ台まで落ちた。
 鍛え上げた筋肉をすべて失った。

 先の復帰戦前、1年前の自分がどんな行動をしていたか記憶をたどった。
「眠れず、深夜に(上井草)グラウンドを徘徊というか、散歩していました」
 寮の部屋を抜け出して敷地内にある芝の周囲を歩きながら、「どうして自分はここに立てないんだろう、と思い詰めていました」。

 退院後、数週間を自宅で過ごしてから仲間のもとに戻った。
 しかし、自分ができることは限られている。練習は別行動。ケガ人ともまったくの別メニューだった。

「みんなが(寮の)食堂で談笑しながら食事をしている。お風呂で楽しそうに喋っている。そんな光景を見ることすら辛い時期がありました」

 負の空気を隠し切れないと自覚した。
 それは周囲に申し訳ないから、仲間とは時間をずらし、行動した。
 結果、孤独になった。

 2歳のときに初めて楕円球に触れた(葛飾RS→ベイ東京ジュニアRC)。
 ラグビーを通して多くの仲間ができた。いろんなことを学んだ。
 それだけ深く愛したものを失い、笑顔を忘れた自分がいた。

 骨折などであれば、回復へのプロセスは分かりやすい。しかし、自分の病状は前進が明確ではない。
「誰も見ていないところで、本当に前に進んでいるのか分からない練習を重ねていました。前に進んでは後退するようなことを繰り返していたと思います」と回想する。

 じれったい。
 苛立ったこともある。
 そんな中で、「できることを一つずつ積み上げていきました」。
 苦しい時期を乗り越えられたのは、友の存在のおかげだった。

「思いを聞いてくれる人がいたのが大きかった。辛いことでも、こういうことをしたいでもいいから、何でも言ってくれ、教えてくれと言ってくれる仲間がいました。親にも言えないことを聞いてくれた」

 同情されたいわけではないけれど、ひとりにしないで。
 心の叫びは、親友には届いたのかもしれない。

 ラグビーの面でも、以前とは違う自分を受け入れられるようになって、前向きになれた。
 なんでもできる自身の姿がいつも頭にあったから、あれもできない、これも…と、なかなか前に進まぬ現状が嫌だった。

「以前と比べて足りない自分を許せなかったのですが、できることが少しずつ増えることを成長と考えられるようになって変わりました」
 日体大戦のプレーは、現時点での自身の100パーセント。この先、その全力の到達点を高めることを続ける。

 復帰戦の終盤、ロングゲインをしたシーンがあった。
「あれが、いまの精一杯のスピードでした。ただ、いちばんいい時の自分の速さがイメージにあり、それとは乖離があるので、もっと早く走ろうとすると足がもつれそうになる。あのときも、どうやって抜こうかと思ったら、もう目の前に相手がいました」

 赤黒ジャージーをふたたび着ることはできた。しかし、「(病気を)克服したわけではありません」。
 現状は、検査結果の数値が安定しているからドクターからGOサインをもらっている。
 体重は66キロまで戻ったけれど、これ以上増やすのは難しいかもしれない。

 寮住まいながら、現在も朝と昼は自炊で賄っている。
 晩御飯はみんなと同じメニューも摂取量を調整する。
 食事制限は続く。

 以前は全体練習が終わっても個人練習に多くの時間を費やしていたが、いまは早くグラウンドを出て食事を摂り、すぐに休む。
 体のケアに対する意識は高まった。そして、それはこれからも不可欠となる。

 自分の生活の大部分を占めていたラグビーがなくなって、そこにいろんな景色や言葉が入ってきた時期があった。
 これまで気づかなかったことが自分の中に入ってきた。

 新鮮だった。
 そして、あたりまえに身近にあったラグビーができなくなって、あたりまえの尊さを知った。

「自分が生きていた世界は、あたりまえと思っていたことで成り立っていて、でもそのあたりまえは、多くの人に支えてもらっていると知りました。練習にしても、コーチ、マネージャーやスタッフの方がいるからやれている。自炊するようになり、食事を用意してくださる方の大変さもあらためて感じました」

 あたりまえを作り出すのってすごい。多くの人たちの支えがあって成り立っている。
 明日が来るのって、あたりまえじゃなくて奇跡かも。
 感覚が変わった。

 ワールドカップに出たい。オリンピックにも。アスリートとしての夢はいまだ自分の中にある。
 ただ、いまはそれより先に湧き上がる感情がある。

「練習。試合。仲間とひとつのトライを喜ぶ。シンプルにラグビーが楽しい。真っ先に、そう感じます」

 高まった人間力はプレーヤーとしての進化も呼ぶ。
 小西泰聖は、体の頑丈さとは違う強さを手に入れてピッチに立った。
 この1年8か月は、絶対に「無」ではなかった。


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