高森雅和には悪いことをした。
20年以上前、私はニュージーランドにいた。クライストチャーチの小さいアパートをひとりで借りていた。高森が間借りに来る。早稲田の3年生はラグビー留学に来ていた。
「あかん、おまえがおったら、日本語をしゃべってしもて、英語の勉強にならんのや」
今さら英語かいっ、そんな捨てゼリフをひとつも吐かず、高森は帰って行った。私は海外で、同胞でもある年下を助けないロクでもない奴だった。その後、アイなんちゃらという英語の試験でわずかばかりの点数を取った。でも、今はエブリシング、忘れた。
高森はそんな学生時代の些末なことを覚えている暇はない。42歳になった今、ビジネスにまい進している。
Cycurity Japanの社長である。「サイキュリティー」と読む。以前、仕事で関わったイスラエルの会社の名前をもらった。造語のようである。
なんの仕事よ? おっさんに分かるように説明して。
「ざっくり言うとですね、企業さんなんかが持っているSNSのアカウントの代行運用やその分析、動向調査ですね」
垂れた目じりは昔と変わらない。柔らかさを醸し出す。
そんな仕事があんのか?
「広告宣伝ですから、ビジネスに大きく影響します」
事務所を東京の一等地、千代田区に構える。働いてくれているのは15人になった。
会社を設立したのは昨年の7月。ひとり社長から1年3か月で急成長。今では官公庁の依頼もある。このビジネスの確かさや高森の目のつけどころのよさを示している。
仕事のやり方は、電通で学んだ。2007年に中途採用で入社する。その前はプロ選手として神戸製鋼(現・神戸)で4年を過ごした。
「ラグビーを封印しろ」
この広告代理店の上司には言われる。
上司はこの競技が大好きだった。それでもあえて高森にその言葉を投げた。背景を使わず、道を切り開いてほしい。厳しい分だけ身へのつき方が違うことを知っていた。
くじけそうになる時、降りて来たのは小泉和也の言葉である。
「脚を下げたらあかん。しんどい時、きつい時こそ踏ん張れ。そうしないと信頼されない」
小泉は早稲田の7学年先輩。神戸製鋼(現・神戸)ではともにロックとしてプレーした。日本代表キャップは12を持つ。
「31で契約から正社員になって、36で部長にしてもらいました」
電通には13年、籍を置いた。大手通信社の営業やインベント活動、2011年にあった東日本大震災の復興支援にも取り組んだ。
人生を貫くラグビーを始めたのは高校入学後。千葉の県立校、市川東だった。それまでやった野球をやめ、遊んでいたところを友人に誘われた。現役時代のサイズは185センチ、98キロ。その体を生かす。
早稲田には教育学部のAO入試、いわゆる自己推薦で合格した。1学年下のスタンドオフは大田尾竜彦。現監督である。
「1年の時は7軍でした。退寮の危機。ラグビーをやめようか、と思いました」
2年に上がるころ、ニュージーランドに留学していたその友人を訪ねる。
南半球の島国で転機が訪れる。
「自由にラグビーをしたら、楽しかった」
この時は1か月半ほどの滞在。3年の時は1月から8月まで8か月滞在した。
「1、2年は単位をフルでとりました。だから、向こうに行ける余裕がありました」
監督は益子俊志から清宮克幸に変わったが、この約束は反故(ほご)にされなかった。
部屋探しをしたのはこの時期である。クライストチャーチの郊外にあるクラブ、グレンマークに所属して、毎試合、体の大きなキウイを相手に奮闘する。真夏の日本に帰れば、ロックとして完全レギュラーになった。
上級生での大学選手権は38回と39回。3年時は準優勝。関東学院に16−21。4年時は優勝する。同じ相手に27−22。この制覇は赤黒ジャージーにとって、13大会ぶり11回目のことだった。
神戸製鋼には小泉らに誘われた。感性のラグビーに触れる。前が空いたら行く。周りを見る。決め事はあまりなかった。その分、多士済々。高森の入団とトップリーグ開幕は同じ2003年。チームは初代王者になった。
「自分の限界がわかりました」
日本代表にはなれない。プロとして長く生きる自信もない。身を引いた。
ただ、その4年間も今に生きる。決め事がないラグビーをやったため、選択はすべて自分にまかされる。それが当たり前。まさに社長業。神戸製鋼における状況判断、そして転身も正しかったことになる。
「神戸もよかった。電通もよかった」
そう言える自分がいる。
先日、大田尾や神戸製鋼のひとつ先輩にあたる野澤武史と飲んだ。その時、母校のクラブへの寄付を申し出た。
「OBは金を出して、口は出さないようにしないといけません」
チームは対抗戦で開幕連勝を記録する。9月10日の青山学院は38−8、18日の筑波には23−17だった。
「後輩たちにはラグビーを楽しんでほしい。たとえば、同じ代にゴローマルがいたら、フルバックでは出られない。そういう巡り合わせもある。でも人生は長いのです」
5学年下、日本代表キャップ57を誇る五郎丸歩に選手として比肩することはなかった。しかし、ビジネスでは結果を残している。高森の生きざまはそのまま言行一致である。