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【ラグリパWest】死線を三度超えて。福岡進 [リコーブラックラムズ東京/アシスタントディレクター]

2022.07.28

リコーブラックラムズ東京のアシスタントディレクターをつとめる福岡進さん。監督やGM経験を生かし、マーケティングやプロモーションでチームを側面から援護する。後方は大会で得た盾やトロフィーなど。前身のリコーは全国社会人大会(リーグワンの前身)や日本選手権で優勝経験がある



 クライストチャーチで美談を聞いた。20年以上も前のことである。

 主人公は福岡進。話者はリコーの後輩だった信野將人である。日本のオフシーズン、信野はニュージーランドでプレーした。

 福岡は骨肉腫に襲われた。骨のがんは命の危機。離婚を切り出す。迷惑はかけたくない。放射線治療は生殖に影響を及ぼすこともある。お互い30歳。今ならやり直しもきく。

 妻の由美は一蹴する。
「私をそんな女だと思っているの?」
 2人は中学の同級生でもあった。

 南十字星の輝く国で信野は感に堪える。
「それを提案した福岡さんもすごいし、すぐ断ったおくさんもすごいと思いましたよ」
 信野は福岡よりも7学年下。スタンドオフとして日本代表レベルだった。

 闘病は2年ほど。福岡は右ひざに人工関節を入れた。30センチ以上の傷跡が残る。杖は必要だが、夫婦の仲に変わりはない。よかった。別れていれば、この文章は根本から崩れる。2人にとって愛は永遠である。

 福岡はこのリコーにとって大きな存在だ。会社の人に対する優しさの象徴である。
「3大成人病はコンプリートしました。がん、心臓、頭部ですね」
 きりっとした男前の顔が緩む。大病のたび、内勤など働きやすい部署に移してもらえた。骨肉腫の4年後、2001年には心不全。2017年には脳出血に見舞われた。当時の肩書はそれぞれ選手、監督、GMである。

 福岡は昨年、リコーブラックラムズ東京と名前を変えたチームに戻った。アシスタントディレクターとして、事業化されたチームの戦略グループを束ねている。
「マーケティングやプロモーションを中心にやっています」

 今月発表されたTOKYO UNITEにも加わった。プロ14団体に横串を通し、スポーツの新しい価値を見いだす。大相撲や巨人やヤクルト、ラグビーでは東京SG(旧サントリー)と東京BL(旧・東芝)も名を連ねている。

 日体大からリコーを選んだのは水谷眞の存在がある。監督や日本や関東のラグビー協会において要職を歴任した。
「水谷さんはずっと見に来てくれました」

 元々は吉田浩二の視察だった。同期のプロップは強烈なスクラムを組んだ。ところが内臓疾患になる。スカウトは去る。水谷だけは残った。2人の高校日本代表の監督だったこともある。水谷は骨肉腫になった時も会社との窓口になってくれた。

 日体大への入学は当時の監督、綿井永寿の引きによる。4年時、福岡は副将、吉田は主将になった。第25回大学選手権(1988年度)は4強敗退。明治に16−28。進路は2人ともにリコー。吉田は現在、山梨学院大の教授であり、ラグビー部のコーチでもある。

 福岡はユーティリティーBK。170センチ、73キロほどの体には速さと器用さがあった。リコーでは日本代表キャップを得る。1990年、アジア大会決勝の韓国戦だった。
「スタンドオフが平尾さん、センターでコンビを組んだのが朽木さんでした」

 ミスターラグビーの平尾誠二と「グラウンドのテロリスト」とその強烈タックルを評された朽木英次と3人でミッドフィールドを固める。スリランカであった一戦は9−13と競り負けたが、よい思い出も残る。

 リコーは関西と縁がある。花園近鉄ライナーズと定期戦を組む。トップレベルの社会人による定期戦はこれだけだ。福岡は言う。
「いつも楽しみにしています」
 試合は東京と大阪を行き来する。今年は11月にホームの砧(きぬた)で予定。通算成績はリコーの24勝20敗2分である。

 この定期戦は1976年(昭和51)に始まった。とっかかりはビジネス。九州・福岡にビルができた。その中に近鉄運営の博多都ホテルとリコーの支店も入った。その経緯を三善(みよし)信一が『近鉄ラグビー部70年史』に一文を寄せている。
<リコーは創立日も浅く、たまたま八幡製鉄を破ったのでいささか有名になり、多少自信がつきかけた程度>

 リコーの創部は1953年。近鉄のそれは先んじること24年である。定期戦が始まるまで全国社会人大会(リーグワンの前身)の優勝回数は3対8。大学と争う日本選手権を制したのは2対3。半世紀ほど前、この2チームが時代の先端を走っていた。その前に栄華を極めたのが八幡製鉄(現・日本製鉄八幡)。全国大会を12回制した。

 執筆時、三善は肩書を「リコーラグビー部後援会長」にした。一文を含め、慎み深かった。会社ではトップの会長にまで昇り詰める。この事実だけでも、黒いジャージーから「和製オールブラックス」と呼ばれたチームを昔から全社応援してきたことが伝わる。

 定期戦が始まった時、福岡は10歳だった。ラグビーとの出会いはその5年後。「ダイコー」と呼ばれた相模台工である。監督の松澤友久に勧誘され、サッカーから転身する。
「ランパスを2時間ぶっ続けでしたりしました。精神的にも強くさせてもらえました」

 3年時、64回全国大会(1984年度)では同校初の準優勝。秋田工に4−9だった。福岡の卒業後、相模台工は戦後では秋田工、目黒(現・目黒学院)に続き3校目となる連覇を達成している。73、74回大会だった。

 時は流れゆく。母校は神奈川総合産業に名前を変え、福岡は死線を3度超えた。
「生かされていると思います。すべてに意味があるんだろうな、と。だから、今できることを一生懸命やるだけ。ご恩返しです」

 戦略チームとして目指すところはある。
「スタジアムを満杯にしたい。そのためにSNSやメディアも含めて、いかにみなさんとつながっていけるかだと思っています」
 チームはリーグワン元年、12チーム中9位。平均観客数3715人はそれを2つ上回る7位だった。

 生かされた命を大切にして、福岡はこれからも側面援護を続けていく。