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【ラグリパWest】教育とラグビー。土井崇司 [東海大学附属相模高校・中等部/校長]

2022.07.27

東海大相模の校長になって3年目に入った土井崇司さん。東海大仰星時代はラグビー部を創部。全国V6の礎を築いた。神奈川県相模原市にある同校校長室にて。左は東海大グループの松前重義初代理事長の揮毫による建学の精神



 土井崇司は校長である。東海大の付属である相模の高校と中学に全責任を持つ。ここは13ある付属校の中で旗艦的存在である。

 土井は還暦を2つ超え、役務は3年目に入った。短く刈り整えられた髪は白っぽいが、日焼けした肌や薄茶色を帯びた瞳の輝きはラグビー指導に熱中していた頃と変わらない。

 玄関を入ってすぐにある校長室のドアは就任時と変わらず開け放たれている。
「校長先生、と声をかけられたら、おう、入っておいで、と言います」
 目じりは下がる。今でも現場に近い。

「この職についているのは、ラグビーのためではありません。学園、学校、そして何より生徒のためです」
 土井が創部した同じ付属の仰星は、この国を代表する高校のラグビーチームになった。38年の間に全国大会優勝を6にまで積み上げる。歴代4位。天理、東福岡と並ぶ。

 相模はまだ頂点に立ったことがない。
「勝たすため、私がとって変わってやる、というのは違います」
 監督の三木雄介は高校時代の教え子。土井は教員であって、勝負師ではない。

 仰星の最初の全国優勝は79回大会(1999年度)。決勝戦は埼工大深谷(現・正智深谷)に31−7。戦術の軸は「ショートラック」。ラックで肉弾戦。相手が寄れば、HB団が手薄なサイドに動いたり、大外にキックを蹴る。主将フランカーは湯浅大智、現監督である。

 その後は「54321」。グラウンドを縦に5分割してボールを持ち込む場所を決める。今のポッドのような感じだった。そのため、土井にはラグビーコーチの肩書が先に来る。
「でもね、元々は教育者を目指していました」

 競技は大阪の府立校、金岡(かなおか)で始めた。監督は大内田節夫だった。
「先生の指導はやんちゃな子もまじめな子も一緒でした。お宅は学校から自転車で1時間ほどかかりましたが、よく呼んでもらってごはんをごちそうになりました」
 差別はなく、家族のような暖かさがあった。

 土井は東海大に進む。ラグビー部監督は和泉武雄。早稲田OBだった。学生課での上司が谷岡文秀(ぶんしゅう)である。
「大阪に高校ができるが、行かないか?」
 仰星にラグビー部を作る前提だった。土井は断った。
「勝たすため、理に合っていないこともしなといけないのではないか、と思いました」
 1983年春、卒業して大阪に戻るが、府立校の講師となり、保健・体育を教えた。

 しばらくして和泉から電話がある。
「仰星の校長に会いに行け」
 断るつもりで足を運んだ。
「和泉さんの顔を立てました」
 校長は山崎諭(さとる)だった。
「うん、と言うまで帰らさない」
 山崎は机の上に足を乗せて座ったまま。8時間ほど校長室にいた記憶がある。最後は根負けした。こだわる理由を問うた。
「教頭が、あんたや、と言うからだ」
 教頭は谷岡だった。山崎は谷岡を信じ、谷岡は土井を信じた。教育の一情景である。

 山崎は東大野球部出身。みずほ銀行の前身である日本興業銀行に入ったが、50代で教育畑に移る。相模の校長にもなった。谷岡は山崎のあとを受け、仰星の二代目に座る。

 土井は最初、宣言した。
「選手は引っ張らない」
 学校のあるのは北河内と呼ばれる地域でラグビーが盛んだった。チームはすぐに16強や8強に入る。
「その中で、勝たすことも教育のひとつではないのか、と考えるようになりました。勝つことによって人生はいい方向に向きます」
 大学に競技推薦で行ける。勝った思い出を胸に人生を歩んでいける。就任5年ほどでラグビーによる推薦入学を受け入れた。

 ただ、有望選手は大阪工大高(現・常翔学園)をはじめとする強豪校に流れる。そこで理論の登場である。
「そこを突き詰めないと勝てない」
 卸し元は早稲田。スタンドオフだった土井は、和泉に連れられて大西鐵之祐の六本木の自宅へ行く。大西は早稲田の監督を最大の3期つとめた。日本代表監督時代の1968年(昭和43)にはジュニアオールブラックスを23−19で破る。ニュージーランド代表の下に位置するチームだった。

「横井久さんの国立の家にも行きました」
 横井は大西の後輩。同じく早稲田、日本代表の監督を歴任した。クロスディフェンスを教わった。内側のセンターが強い場合、ボールを回させない。スタンドオフの前をわざと空け、入って来たこところをセンターが外から内にタックルに行く。このやり方を元木由記雄が中心だった大阪工大高に使った。
「負けたけど、春は108点取られたのが、秋には20点。80点ほど縮まりました」
 元木は日本代表キャップ79を誇り、現在は京産大のGMをつとめている。

 激戦区の大阪で、仰星の全国初出場は72回大会。就任から9年目だった。東農大二に8−26と敗れるも、8強入りする。

 土井はすでに戦術書を3冊出している。ベースボール・マガジン社からの『ラグビーの教科書』シリーズである。
「なんか浮かんじゃう」
 これまで考えは突き詰めたおした。イメージは勝手に降りてくる。名人である。
「ただ、私は指導者スタートではなく教育者スタート。その思いは今も持っています」

 大西に対しては理論だけでなく、その人格も尊敬している。
「ああいう人間力は出せません」
 国際試合前、水杯を交わし、それを叩き割らせる。「死んで来い。骨は拾ってやる」とグラウンドに送り出す。みな感極まって泣いている。その感化力に目を見張る。

 まだまだ目指すべきものが土井にはある。「ラグビーの指導だけやったら、先生、先生と言うてくれてへんと思います」
 そのことを中学生や高校生を相手に今でも確かめられる。幸せなことである。

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