山口良治の本貫(ほんがん)の地は福井の美浜である。旧国名は若狭。前は群青の日本海、後ろは濃緑の高原。初夏の自然が満ちる。
生まれ育ったその場所に里帰りをする。穏やかな海風を受け、白っぽい顔はにこやかだ。
「ここに来たら、ゆったりする。気持ちが落ち着く。思い出がいっぱいやからね」
大学進学の18歳までここにいた。
あの劇的勝利からは40年以上が過ぎた。当時はやんちゃだった伏見工を監督就任6年目で高校ラグビー日本一にする。その偉業は色あせることはない。帰郷しても人に囲まれる。その体には磁場ができている。
男2人が実家の前にある休耕地の草を刈っていた。グラウンドが入るほどの大きさに汗みずくになる。山口はつぶやいた。
「ありがたいことやなあ」
奉仕をするその男たちはラグビーではない。高校のボート、漕艇の関係者である。
藤井範久とは重なる縁がある。伏見工で同じ保健・体育教員として同僚だった。長くボート部の監督をつとめた。この美浜が同郷でもある。藤井の父・諄一は西郷中(現・美浜中)時代の山口の恩師だった。
藤井は今でもよく覚えている。1981年(昭和56)1月7日の決勝戦である。
「栗林君がすみっこにトライしました。勝った、やったー、って先生に抱き着きました」
終了間際、ウイングの栗林彰が殊勲者だった。7−3。大阪工大高(現・常翔学園)を振り切り、60回となる全国大会において初の頂点に立つ。スタンドオフ主将はのちに「ミスターラグビー」と呼ばれる平尾誠二。男泣きする山口には「泣き虫先生」の愛称がついた。
藤井は山口のひと周り下の弟分としてベンチに詰めいていた。エピソードを語る。
「春日大社に初もうでに行きました」
山口がひいたおみくじには書かれてあった。
<勝負は最後の5分>
なんじゃ、そりゃ。うっちゃっていたその言葉が決戦で眼前に大きく広がる。
「ぞぞーって、鳥肌が立ってきました」
ここからチームのV4が始まった。山口はあまたの高校生の人生をよい方向に導いた。
草を刈るもうひとりは山本哲也。高校で建築やデザインを教える。静岡の県立校、浜松大平台に勤務する。
「先生と知り合うきっかけは、本やテレビを見て感動して、学校に電話したことです」
学校は名古屋の伏見で面会には近い、と思った。そうしたら京都だった。
「来るものは拒まない」
山口の表情は緩む。
山本は山口の写真をスマホの待ち受け画面にしている。
「画像を変えたら、毎日いいことばっかり起こるんです。本当です」
退部を申し出た部員が翻意したりする。
「夫婦げんかもしなくなりました」
少し宗教じみてはいる。ただ、人は何を信じるか、という観点に立てば、宗教も教育(先生)もそう変わらない。
藤井は山口と同じ京都に住まう。運転手もする。2時間ほど車を走らす。山口は2度の脳梗塞で杖がいる。山本は高速を3つ使い、3時間半ほどかけてくる。四捨五入すれば70と60歳の2人は肉体労働をいとわない。
故郷では地元の人たちも顔を出す。傘寿の同級生は軽トラで来て、刈草を処理してくれる。幼なじみや家の修繕を表向きにやって来る人もいる。高校のボート関係者もさらに加わる。みんなにこにこしている。
集う家は「古民家」。部屋数こそ6つほどだが、襖を取り払えば100くらいの宴会なら十分に可能だ。妻の憲子は話す。
「昔はかまどや五右衛門ぶろ、それに囲炉裏なんかもありました」
内外のリフォームは終わっている。藁ぶきの屋根にはトタンを張った。北側には蔵もある。玄関にそびえるのは今も青々とした葉をつけるタモの太い古木。樹齢は数百年。家を守る「ご神木」と呼んでいい。
山口と同学年の憲子はこの美浜で出会った。高3の夏合宿でこの地を訪れる。平安女学院のバレーボール部だった。
「じんくろうさんの家に泊まりました」
山口の親せきの家だった。ロマンスが始まる。山口は日体大を出て、岐阜教員から京都市役所に移る。フランカーとしての日本代表キャップは13。その歴史を共有する。
夫婦の間には娘が2人育つ。長女の慶子の息子2人、山口にとっての孫たちはラグビーをしている。小村健太と真也の兄弟は帝京に進む。健太はこの4月、NTTドコモに入社した。真也は大学2年生だ。
健太からのLINEを見て、山口は笑む。
「今日はドコモショップを手伝った、って」
真也は新人の昨年からバックスリーなどで公式戦に出ている。
「脚はそんなに速くないのに、ウイングで使ってもらったりしている。ありがたい」
前監督の岩出雅之は山口の日体大の後輩になる。最長9連覇を含む10回の優勝を大学選手権で成し遂げた。今年度、顧問に退く。
山口はこの地で縁を受け、ファミリー・ツリー(家系)を大きく繁らせた。その間、働きの中心は伏見工。監督として23年籍を置いた。今は京都工学院と名前を変えたチームの総監督である。
京都工学院は95回大会(2015年度)を最後に全国大会に出られていない。京都成章に6連敗。今春、23回目になる選抜大会には出た。7月16日から始まる9回目の7人制全国大会にも京都成章を破って出場する。
「花園に出てくれないと、昔の伏見の名前を思い出してもらえない。選抜や7人制に出てくれたことはうれしいけれど、我々の時代にはそんな大会はなかった」
60回大会、初優勝したのは花園ラグビー場だった。聖地に戻って、そして、勝ってほしい。本貫の地で思いをあらわにする。それは傘寿を前にした魂の声にほかならない。