ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】好きな道を歩む。江藤友紀 [九州龍谷短期大学]

2022.06.01

ラグビーの強豪大学から望まれながら、保育士への道を歩む江藤友紀さん。福岡・浮羽究真館高時代は130キロ近い体重を利したプロップだった



 高校3年のころ、目の前にはラグビー強豪大学への道が伸びていた。リーグワンから日本代表へも通じる可能性もあった。

 江藤友紀(えとう・とものり)はあえて別の道を取る。その先にあるのは保育士だった。

「今は毎日、楽しいです」
 愛称「トモノリ」はアンパンマンのように丸い顔を緩める。目じりは下がり、黒目がちの瞳は温かさに満ちる。

 通うのは九州龍谷短期大学。学ぶのは保育学科。女子が多い中ではひときわ大きい。175センチの130キロである。
「体重は高校の頃と変わっていません」
 このまま保育士になれば、この国で最重量になるかもしれない。

 高校は福岡の県立校、浮羽究真館。ポジションはもちろんプロップだった。監督は保健・体育教員でもある吉瀬晋太郎(きちぜ・しんたろう)。京都産業大のOBだった。トモノリを母校に連れてゆく。当時、高校ラグビーの指導者になって5年目だった。
「初めて先生の前に出しても恥ずかしくない選手に出会い、育ってくれました」
 先生とは監督の大西健を指す。吉瀬は卒業後、1年間コーチをつとめたこともあった。

 大西が半世紀近くをかけて鍛え上げたスクラム、特にFW第一列の強さは全国にその名をとどろかせる。吉瀬のころ、まだ3時間の組み合いはざらにあった。その中から、古くは田倉政憲、最近では山下裕史などの日本代表のフロントローが生まれる。キャップは田倉16、山下は51。田倉は京産大のコーチ。山下はリーグワンの神戸所属。吉瀬とは同期にあたる。

 その看板の位置でトモノリは大学生とスクラムを組み、ラインアウトで捕球者を差し上げた。その動きを見て、大西は言った。
「シンタロー、よかったらウチで預からせてもらう」
 スポーツ推薦入試へのゴーサインが出る。

 トモノリを評価したのは大西だけではない。同じ時期、臨時コーチとして浮羽究真館を見ていた横井章も言ったという。
「早稲田の練習に連れて行く」
 当時、傘寿(さんじゅ)に近かった横井は母校に引っ張ろうとした。センターとしての日本代表キャップは17。ただ、当時のキャップ対象試合は少なく、初選出の1967年から8年間で19。その時代、横井は桜のジャージーの中心にいたことになる。主将もつとめた。その本物が魅力を感じた。

 ところが、トモノリは楕円球の世界における高評価にも浮かれることはなかった。
「自分は高校からラグビーを始めました。そのメンバーとラグビーをするのがとても楽しかった。違うチームでそうなるかは疑問でした。それに高校の時には脚をケガすることもありました。大学でそうなれば、チームに迷惑がかかります」



 辞退の決断を聞いた時、吉瀬も無理強いはしなかった。監督より、教員が顔をのぞかす。大西に謝りの電話を入れる。大西もまた大学教授だった。報告を受け入れた。

 トモノリが保育士に憧れたのは母・智美の存在が大きい。母もまたこれを天職とする。
「同じ園に通っていました。子供の目からもおかあさんは楽しそうに映りました」
 なによりトモノリ自身、子供が好きだった。
「無邪気な分、本音を言います。そこがかわいい。それに、少し教えたら悪いところが直ります」

 短大での学びは3年目に入った。この修学年数を選んだのは理由がある。
「奨学金を受けず、自分で稼いだお金で学費を払うことができます。2年よりゆっくりできて、授業を分散して入れられます。だから、アルバイトができます」

 学費は造園会社で稼ぐ。中学を卒業する頃からお世話になっている。週4日ほど働かせてもらう。時給で換算すると1000円以上はもらっている。会社は自宅から自転車で20分ほどのところにある。トモノリは運転免許を未取得である。雨が降れば社長が車で迎えに来てくれる。よい職場である。

 トモノリは植生のことも詳しくなった。住まう浮羽地区とその周辺は農業が盛んだ。米や麦はもちろん、みかん、梨、柿、ぶどう、栗など果物も多く産する。
「果物は甘みを増すために接ぎ木をします。でも、それをすると土の栄養が吸い取られます。なので、次の年は米を植えて、もう一度栄養を蓄えます」
 この業種でも即戦力でいける。

 ラグビーを続けていたらどうなっていたか、と考えることはある。京産大は昨年度の大学選手権で8回目の4強入り。10回目の優勝をする帝京を30−37と追い詰めた。
「やっていたら、自分はそれに少しは関われていたかもしれません。まあでも、この選択でよかったと思っています」

 来春には念願の保育士になり、保育園での勤務が始まる。
「子供の気持ちが理解できて、一緒に成長できる先生になりたいと思っています。子供はまだ自分の気持ちを言葉で伝えられません。そういう子たちに手を差し伸べ、ひとりひとりの個性を尊重してあげたいです」

 今でも時間があれば母校に顔を出す。130キロは後輩たちの格好の練習台になる。ラグビーは趣味程度。それもまた人生である。先々もこの選択が正しかった、と思えるような人生を歩いて行く。


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