ラグビーリパブリック

ジャッカルの達人・小林訓也[相模原DB]、古巣との戦いを最後に現役引退。

2022.05.29

ダイナボアーズのファン、ダイナメイトの拍手に応える(撮影:毛受亮介)

持ち場のブレイクダウンで力を発揮した(撮影:毛受亮介)
試合後、涙を流しながら仲間と抱擁(撮影:毛受亮介)

 三菱重工相模原ダイナボアーズの広報・長澤彩子さんから、「最後に一言、小林からお願いします」とアナウンスが入ったとき、もしかして、と予感した。

 数秒後、それは現実になる。

 試合後の記者会見に出席していたFL小林訓也(こばやし・のりや)が、おもむろに話し始めた。
「あのー僕、今日の試合でキャリアを終えることになりました。最後の試合が7年お世話になったNTTコム…、すごくいいチームと戦えて、さらに勝って昇格できたこと。ラグビー選手として、…なんと言うんでしょうか、いいものをもらえた。チームメイト、タイミングに本当に恵まれました。長い間、お世話になりました。皆さん、本当にありがとうございました」

 5月28日、ダイナボアーズはシャイニングアークス東京ベイ浦安との入替戦2戦目に臨み、33-19で勝利する。2戦2勝として、文句なしのディビジョン1昇格を決めた。
 チーム最年長、37歳の小林はこの2戦にいずれも先発しフル出場。今季、リーグ戦での先発は開幕戦(花園L戦)と第10節(三重H戦)の2戦のみも、この大一番で最後の仕事を託され、役割を全うした。

「ラグビー選手として、いつでもいけるように準備するのは大事なことです。その中で今回はケガ人も重なり、たまたまこの2試合に先発できた。運が良かったです。古巣との入替戦で、先発で戦えるのは本当に幸せなことですし、自分で言うのもあれですが、”ついてるな”と。先発と言われた時はキターという感じでした」

 新潟は巻高校でラグビーを始めた。当時のポジションはBK。U19日本代表にも選ばれた。教員を志望し、日体大へ。ここでバックローも経験した。対戦相手のNTTコムへは、大学卒業後に入団したヤマハ発動機の強化縮小に伴い、2010年に移籍。’17年度シーズンにダイナボアーズに加入するまで、7年在籍した。その間、ジュニア・ジャパンやセブンズ日本代表にも選ばれた。

「(社会人での)15年のキャリアのうち、半分近い7年をコムでお世話になりました。今日は顔馴染みの選手もいたり、ロブ・ペニー監督にもお世話になったので、すごく複雑な気持ちでした。ですが、試合が始まれば目の前の相手にタックルして、ブレイクダウンでしっかり自分の役目を果たせたと思っています」

 2012年度のトップリーグでは個人ランキングでトップのターンオーバー数を記録した、ジャッカルの達人。この日も19-12と僅差で迎えた後半、長い時間、自陣でのディフェンスを強いられる時間帯で、小林は2度のジャッカルでピンチを救った。今季のダイナボアーズの躍進を支えたディフェンスを、小林も最前線で体現した。

「この2戦は(自分に)100点をあげていいのではないでしょうか。やはり古巣と試合をするのは高揚感であったり、特別な力をもらえた。そういうので自分の体は80分間しっかり動いたし、ターンオーバーもできた。チームも勝てた。100点をあげていいと思います」

 ダイナボアーズに移籍する5年前、ラグビーマガジンでのインタビューで、小林はこう語っている。人生の岐路について問われた時だ。以前、所属したヤマハはトップチームになり、NTTコムは移籍する年に最高位の5位と躍進していた。

「あのときヤマハに残っていたら、いまどうなっているんだろう。そう頭に浮かぶことはありますよ。今回の決断も、あとになって、あのままコムにいたらどうなるんだろう…と思う日が来るかもしれません。でも、それらのことが正解だったとか、間違いだったとか、どうやって、誰が決めるのでしょう。それこそ現役を引退するときとか、人生の終わりに見えてくるのでしょうか」

 いざ、ジャージーを脱ぐ時が来て、思うのだろう。
 ここに来て正解だった、と。

ダイナボアーズへの移籍は同い年のHO安江祥光がつないでくれた(撮影:毛受亮介)
2018年から4シーズン指揮を執ったグレッグ・クーパーHCも退任することを明かした(右/撮影:毛受亮介)
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