ラグビーリパブリック

【コラム】水を運ぶ人

2022.05.20

(撮影:BBM/BMB)

 丸い球のフットボールの元日本代表監督、イビチャ・オシムは「水を運ぶ人」と言った。きつい仕事をいとわぬピッチの働き者のことだ。追いかけて、奪い、ひたすら渡し、また追いかける。仲間のゴールの瞬間は遠い場所にいたりする。

 2年前の7月。北海道は函館の松風町、焼き鳥店の若い女性店員がつぶやいた。

「学校の水をくむ場所がグラウンドからいちばん遠くにあって大変でした」

 函館工業高校ラグビー部のマネジャー時代の思い出だ。

 いまラグビーの世界で話題の「水を運ぶ人」は、手を抜かず汗をかく選手でも、高校の働き者のマネジャーでもない。試合中の「給水係」である。

 国際統括機関のワールドラグビーは、この7月1日から「ヘッドコーチやダイレクター・オブ・ラグビーが給水担当としてフィールドの内側に入る行為」を取り締まる。5月17日に国際的な試験ルールの運用承認を明らかにした。

 2021年のブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズの南アフリカ遠征で、地元のスプリングボクスのダイレクター・オブ・ラグビー、ラッシー・エラスマスが「水を運ぶ人」となり、どんどん選手に声をかけて物議をかもした。

 今回の方針の主眼は「選手にあらざる者はフィールドに侵入するな」にある。治療行為を除き、エリートのレベルの給水は原則、前後半各2度に限る。他の機会に水を求める場合はデッドボールライン後方かチームのテクニカルゾーンで行う。

「試合が動いているときに選手でもない人間がたくさん入り込み、もはや制御困難だ」(ワールドラグビーのマーク・ハリントン=BBCサイトを引用)。コーチがしきりにボトルを運搬、医療と無関係のスタッフがレフェリーになにやら話しかけたりする。ゲームの滑らかな流れは途切れ、芝の上に小さな渋滞が発生する。そうした現状をタッチラインの外へ蹴り出す意図だ。

 エラスマスは、’19年のワールドカップの優勝監督だから、給水担当はいかにも不自然だった。しかし、日本国内でも、ヘッドコーチ(=監督)の例こそまれだろうが、指導の重責を担う者が「ウォーター・キャリーイング・コーチ」としてピッチを駆け回る姿はいつもの光景である。

 監督やコーチの細部への言及は、フィールド外の鳥の目ゆえの「正解」をもたらす。ただし同時に選手の判断力醸成や直感の芽を摘みもする。得る分だけ失う。

 先日。東京・国立の一橋大学グラウンドで東京都国公立大会2回戦を取材した。感染防止対策の体調管理シートを受付の机で待つ係は、これから公式戦に臨むフロントローである。給水はもちろん現役部員の仕事。おのおののベンチのテント、控え選手、ひとりかふたりの監督やコーチ、黙々と誠実に大会を進める協会役員、大きな腹で、どうして俊敏に動き、柔らかく的確な笛を吹いたレフェリー。実に簡素だ。そして、よきラグビーはそれで成立する。

 簡潔への回帰は退歩とは違う。なにもスキルや体力強化の方法を後退させようというわけではない。いまの環境にあっても、そこにいる選手みずからが、「給水コーチ」なんかに干渉されることなく、刻々と変化する状況における判断や統率を遂行する。これは人類の進歩ではあるまいか。

 スタッフのピッチ侵入のタイミングを規制するニュースに接して、大昔、たぶん32年くらい前の固定電話の会話を反射的に思い出した。知人のコーチがニュージーランドで修業、帰国した。筆者は当時、スポーツ新聞社に勤めながら、余暇のすべてを都立高校の指導に費やしていた。本場の情報を教えてもらおうと受話器越しに聞いた。

「スクラム起点で、幅広いラインにFBが後方から参加してきたら、どういうふうに止めていた?」。答えを忘れない。「ニュージーランドはシンプルなんだよ。7番(オープンサイドのフランカー)が必死で走れば追いつくって」。

 そういうことなのだといまでも思う。わずかなエリートのクラブ、自主性も判断力も身につけたトップ級で編成される集団を除外すれば、およそ大半のチームにとって勝負を決めるのは、いわゆる「システム」の手前のところだ。ひとりひとりが自身の意思や意欲に従って、走り抜き、倒し切り、楽しみ切る。そんな15人がそろったら簡単には負けない。
 
 コーチング不要論ではまったくない。大枠を定め、到達の像から逆算して強化計画を打ち立て、クラブの文化を構築するためには「長く生きてきた者」の指導は欠かせない。そのことは、給水ボトルを携えるコーチに無線で逐一指示を与える行為とは重ならない。

 反則の笛が鳴る。狙うか攻めるか。14人がキャプテンを見る。15人が「水を運ぶ人」に目をやる。どちらのチームを好きになるだろうか。