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【ラグリパWest】奈良からラグビーのために生きる。田仲功一 [奈良県ラグビー協会前副会長]

2022.04.25

奈良のみならず、関西のラグビーのために尽力をしてきた田仲功一さん、77歳。半世紀以上暮らした天理の街の案内板の前で



 田仲功一は約束の天理駅に自転車でやってきた。電動機がついている。

 最近、奈良県ラグビー協会の副会長を下りた。笑みに満ちた丸顔、柔らかい視線を向けて、その理由を話す。

「常々、言うてました。自転車に乗って、自力で白川グラウンドへの坂を登れんようなったらやめる、ってね。もう、ヒザがパンクしますわ」

 駅舎から北東の丘陵にあるグラウンドでは、天理大のラグビーを含め3クラブが活動している。監督の小松節夫は田仲を「こういち先生」と呼ぶ。天理高の後輩にあたる。

 田仲は喜寿を迎えた。15歳からこの街に住む。大学の4年を大阪で終え、母校に戻る。1967年(昭和42)だった。事務職、コーチの二役をこなし、同時に県協会の書記も任された。
「当時、協会の事務局は高校の中にありました」
 時の流れとともに、理事長から副会長に進む。その長さは半世紀を超えた。5年前には文部科学省の「生涯スポーツ功労者」として表彰を受けた。

「奈良県の活動を大きくしたい。その夢は大学が日本一になってかなえてくれました」
 小松が率いる漆黒軍団は、57回目の大学選手権(2020年度)で頂点に立った。決勝で早稲田を55−28で破る。

 普及にも力を入れる。県協会に入って8年後、生駒少年ラグビークラブができる。子供たちが楕円球を追う場所が県内に初めて誕生する。スクールの数は今や8になった。
「北畑さんなんかが献身的にやってくれて、今日の隆盛が築かれました」
 北畑幸二は日本ラグビー協会における普及育成委員会の小学校部門長でもある。

 田仲が生まれたのは県南部にある吉野。桜が全国的に有名な場所である。
「江戸時代には名字帯刀が許された家でした」
 武士と同じ扱いを受ける。十津川の郷士たちは、この吉野を分け行った山塊から出て来た。皇臣となり明治維新の一助になる。

 生家は天理教を信奉する。布教をする祖父について大阪に移る。小中時代を過ごし、天理高でラグビーをすることに決める。
「母の弟、坂本正治の影響です」
 叔父は天理から立命館大に進み、近鉄に入った。太平洋戦争が終わった翌1946年、主将をつとめる。スタンドオフだった。

 高校入学は1960年。その時の体つきは168センチ、68キロだった。
「フロントロー、1番に入りました。先輩から、『重いな』と言われました」
 寮生活で覚えているのは食べ物のこと。
「麦飯に菜っ葉や大根、肉気のものはありません。学期に1回くらい、試合に勝ったらすき焼きが出ました。それがごちそうでした」
 麦飯は腹にたまらない。10キロほどの山道を走る中、空腹で倒れた同級生もいた。食料事情の悪さは体格に反映されていた。



 日本全体がそんな時代の中、田仲らは猛練習で2冠を達成する。秋の国体と冬の全国大会。高3時の1962年度だった。岡山国体では決勝で秋田工を13−3。お互い単独チームだった。その記念撮影を今もなお覚えている。
「真柱さんが『どっこいしょ』と私の膝に手を置いて座られました」
 天理教を統理する「しんばしら」は二代目の中山正善。真柱は自身がたしなんだ柔道と自己犠牲の精神があるラグビーが好きだった。

 2冠目、42回大会決勝は8−3と北見北斗を破った。18回大会以来、2回目の頂点。新制高校になってからは初めてだった。
「うれしかったですね」
 その前、7大会の覇者は秋田工と東京の保善。その2強時代にくさびを打ち込んだ。

 大学は、「叔父の勧め」で強くなり始めていた関大を選ぶ。1年時は同志社と関西リーグ優勝を分け合った。在学中に始まった大学選手権に関大は2回出場。ともに初戦で法大に3−19、19−28と敗れた。田仲は日本代表の下に位置した全日本学生選抜にも選ばれた。

 母校では、監督の松隈孝行の下でコーチとして6年、監督として4年の計10年を過ごした。松隈の次男、孝照は現監督である。

 コーチ時代の51回大会では同校4回目の優勝を経験。監督3年目の55回大会では勝てるチームを作るも、クジ運がなかった。1回戦で國學院久我山に3−18で敗れた。
「前半は3−0でリードしていましたが…」
 久我山は決勝戦で目黒(現・目黒学院)に25−9と差をつけ、初優勝する。

 母校はその後、2回の優勝を積み足し、回数は6。東福岡と並び歴代4位の記録だ。

 学校職員としての仕事は天理高を振り出しに二部(定時制)に移り、中学で60歳定年を迎えた。2005年のことである。

 その間、子供や孫を授かった。田仲家は三代続けて純白ジャージーに青春を捧げる。長男の成貴(なるき)はフランカー。京産大を経てトヨタ自動車に入った。その息子の功栄(こうえい)は新3年。ウイングである。また長女の有里子の息子、竹内喜心(よしむね)は新入生。中学時代はセンターだった。

 田仲の肩書として残るのは関西ラグビー協会の顧問である。奈良を含む22府県を統べる協会では実務を仕切る理事長や副会長をつとめた。
「まあ、顧問の仕事といえば年1回の総会に出席するくらいですから」
 実際的な仕事は締めくくられる。

 その経験の中からラグビーを語る。
「人間の生活そのもの。ルールにのっとってプレーするなど生き方が凝縮されています。また、ノーサイドの爽快さもあります。他の競技では味わえないと思います」

 生まれ変わったらラグビーをやりますか?
「もちろん。それしかありません」
 柔和な視線は最後まで変わらなかった。ラグビーとともに歩んできた満足感が残った。

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