ラグビーリパブリック

自分にとって、この道がいちばん格好良かった。野田滉貴[東京ガス/CTB]

2022.04.05

5歳のとき、長崎ラグビースクールで楕円球を追い始めた。(撮影/松本かおり)



 25年のラグビー人生を穏やかに語る。
 ラストイヤーに活躍の場をつかんだ帝京大学時代は大学日本一の感激を味わった。
 東京ガスラグビー部には8年間所属した。

 高いスキルと信頼のディフェンス。CTB、WTBとして活躍した野田滉貴(こうき)が2021年度シーズンを最後に現役引退を決めた。

 入社当時は30代後半までやれる、やりたいと考えていた。
「なので、思っていたよりは(引退が)早くなりました」
 ケガが続いた。半月板損傷や前十字靱帯の断裂などで右ヒザを手術すること4回。
「自分の満足いくプレーができなくなりました。下(後輩)も増えたので、交代の時期かな、と」

 決断前の2年はリハビリに費やした。それでも調子が上がらないジレンマ。その中で引き際と感じた。
 ラストシーズンは、リハビリをしながらチームをサポートした。ウォーターボーイとして仲間の近くにいた。

 悔しい思いはある。
 しかし、「ケガも自分のラグビー人生の一部。それも含めて満足」と言い切る。

 帝京大学時代は大学選手権5連覇時の代。同期の主将は現・日本代表の中村亮土(東京サンゴリアス )。いまでも、ともにゴルフや食事に出掛ける仲だ。
「世界と戦い、活躍して凄い。昔は(動きが)ぎこちないな、とか言っていたのに。その努力、尊敬します」と笑顔を見せる。リスペクトする。

 大学時代、中村がSOに入る時は、牧田旦(ブラックラムズ東京)、権裕人(埼玉ワイルドナイツ)、森谷圭介(東京サンゴリアス)らとCTBを組んだ。
 仲間たちの多くは卒業後、トップレベルのチームに進んだ。

 最上級生になって、やっと立てた華やかな舞台だった。
「4年生まで公式戦に出られませんでした。体も大きくない(176センチ)。そんな自分が、どうやって周囲のライバルたちに勝ち、試合に出られるのか。考え続けました。気持ちを切ることなく、闘志を燃やし続ける。大学時代は忍耐強く、努力し続ける姿勢を学びました」

 普段は穏やかも負けず嫌い。自分が試合に出られない中、同期がチャンスをもらい、活躍する姿を見ることも少なくなかった。
「どうして自分は出られないのか、と悔しかった。それをバネに闘志に火をつけていました」と回想する。

 腐ることなく、自分の強みを作ることに集中した。
「ディフェンスに自信を持ってやっていました。大きくないのでビッグタックルはないのですが、守備範囲というか、いろんな人のフォローしながら幅広く守る。自分が出れば守備が固まり、安心できる。そうなるようにアピールしました」と話す。

 日本一メンバーだ。当然、当時のトップリーグチームからの話もあった。その中で東京ガスに就職したのは「一番はやく声をかけていただいた」からだ。
「私が4年生になって試合に出始めたということもありますが、どこよりも先に誘っていただきました。人生の中で、一番に声をかけてくださったところで、と思ってきたので」

 長崎南山高校、帝京大学への進学も、同じように決めた。
「思い込みかもしれませんが、自分を必要としてくれている。そこで、プレーで恩返ししたいな、と」
 その信念に加え、東京ガスラグビー部が「仕事100、ラグビー100」を伝統にしているところに惹かれた。

 より高いラグビーのステージを目指し、活躍する仲間たちは誇りだ。
 その姿を見ても、自分の選んだ道は「正解だった」と話す。

「大学時代同様、ラグビーに没頭する生活もいいかな、と思ったこともあります。活躍している同期たちの姿は格好いいし、自分の考えを貫いているところも尊敬します。ただ、自分は自分。仕事もラグビーも、という生活で(自身に)負荷を与えた方が社会を学んだり、成長できると決断しました。自分にとっては、これが一番格好いい」

 東京ガスラグビー部での8年間でも、いろんなことを学んだ。
 4年目にケガをしてからは、外から試合を見つめることも少なくなかった。いろんな思いが湧き上がった。
「プレーしていれば、うまくいかなかったときにストレスを感じます。でも、やっぱりプレーできることって幸せだな。あらためてそう感じました」

 当たり前なんてないのだ。
「いろんな人への感謝の気持ちも、あらためて感じました。当然のようにできているプレーは、チームのOBの方々や協力者に支えられている。定時を過ぎれば気持ちよく送り出してくれる職場の人たち、ここまで育ててくれた親の存在にも感謝です。もともと分かっていたつもりでしたが、そういった思いがあらためて大きくなりました」

 ラグビー人生を振り返って思い出すのは、多くの観客に見つめられた大学時代の試合ばかりではない。
 東京ガスでの「1試合、1試合も鮮明に覚えている」と言う。チーム愛が伝わる。

「特に、2年前の(トップイーストリーグでの)優勝は感慨深かったですね。(最終戦の)セコムとの試合にWTBで出ました。大学のときは勝ち続ける中で切磋琢磨していました。ここでは、なかなか勝てない中で、リーダーとしてどうやったら勝てるのかとか、いろんな考え方がある中で、やっとたどりつけた優勝でした」

 深紅のジャージーを着て、国立競技場にて2万7224人の声援を浴びた2014年1月12日の興奮(帝京大 41-34 早大)。
 2019年12月8日の秩父宮ラグビー場。3847人の前でセコムに31-17で勝って優勝を決めた感激。
 その両方は、「試合が始まれば観客のことは気にならなくなる」という野田の記憶の中に、同じように、しっかり刻まれている。

 東京ガスの背番号14は、そのセコム戦で80分間ピッチに立ち続け、後半27分にはトライを奪った。19-12から勝利を決定づける貴重なものだった。
 それが現役最後の試合。
 幸せなラグビー人生だった。

 これからは、スタッフとしてチームのサポートにあたる。選手の近くで、さりげなく思いを伝えていく。 
「(後輩たちには)この会社でラグビーをする意味を大切にしてほしいですね。仕事100、ラグビー100。そこに意味がある」

 ラグビーを理由に仕事を怠る。仕事を理由にラグビーを怠る。格好悪い。
 東京ガスラグビー部のカルチャーのもと、格好良く生きよう。