プレーヤー生活のラストゲームは、3月20日となった。
金沢で戦ったオール石川との試合。オール早稲田のCTBとしてプレーした。
東京ガスラグビー部に所属して13シーズン。2021年度シーズンを最後に引退した男へ、母校から招待状が届いた。
長尾岳人(がくと)の実力を高く評価する人は多い。
今年が最後。
その思いを胸に秘めて臨んだラストシーズンも、全試合に出場した。
35歳。仕事の量も増えた。ラグビーとの両立は簡単ではない。本当は、2020年度シーズンを最後にするつもりだった。
しかしコロナ禍の影響で同年のシーズンが中止となった。「後悔したくない」と、もう1年プレーすることを決めた。
「体力面、精神面とも、若い選手たちと同じレベルで続けていくのは難しくなってきた」ことも、ジャージーを脱ぐきっかけのひとつではあるけれど、それだけが理由ではない。
「最後まで、自分としては納得いくプレーをしたつもりです。ただ、やはり20代とは違う。(以前ならイメージ通りに)できていたプレーが、できなくなってきていました」
東京ガスでの13シーズン、ケガで戦列を離れた時以外は、ほとんどレギュラーとして過ごした。
『ミスター 東ガス』と言ってもいい存在も、本人は「それは、僕の中では小関(大介)さんです。プロップで39歳まで(2017年度まで、22シーズンに渡って)プレーされました」
そう謙遜するけれど、チームのレジェンドのひとりであることに疑いはない。
叔父さんの誘いもあり、武蔵野ラグビースクールで楕円球と出会う。
仲間に恵まれ、やがて熱心に取り組むようになった。
本郷高校へ進学。タックラーとしての基礎を叩き込んでもらった時期だ。そして早大へ。2年生時以外は大学日本一という黄金期に身を置いた。
SOとして入学した大学では、当時の清宮克幸監督の助言を受けてCTBへ転向した。
「そこで、アタック面が伸びたと思います。いい選手がたくさんいたので、そこで競争に勝つためにはどうすればいいか考えました」
得意としたタテへのプレーを身に付けたのも、その頃だ。
「大学2年時の大学選手権決勝、後半の残り10分ほど出ました。その試合は、フィジカル面で負けた。それまではウエートトレはあまり好きではなかったのですが、その後は体を大きくした。その結果、それが自然と自分の強みになっていきました」
黄金時代の早大のCTB。卒業時にはトップチームからも声がかかった。
その中で東京ガスを選んだのは、現役生活を終えた後も、仕事をラグビーと同じレベルでやっていける環境を求めたからだ。
ラグビー面に目を向ければ、トップチームの多くがCTBに外国出身選手を起用している状況があった。
「自分のポテンシャルで(社会人でも)ラグビーを続けるなら、試合に出られないと楽しくないし、モチベーションが上がらないと思い、東京ガスにお世話になると決めました」
身の丈に合った道を選んだわけではない。結局生き甲斐は、より強いチームを倒すことになった。
三菱重工相模原に勝ったこともある。自身のプレーも幅が広がった。
「東京ガスではボールを動かす役目もあったので、そのあたりは若い頃より、伸びたと思います」
2010年、2012年と、関東代表に選ばれてニュージーランドに遠征したことがある。
周囲はトップリーグチームの選手がほとんどだった。「その中で練習や試合をして、(自分も)やれるな、と感じました」と回想する。
競り合える選手たちの属するリーグの下部でのプレーを、物足りなく感じたこともある。
しかしそれを口に出すことはなかった。
仕事、ラグビーの両方に100パーセントの先輩や仲間たちをリスペクトしていた。
みんなが、限られた時間を効率よく使ったり、活動する時間を作り出して、ラグビーでも上を目指していることを知っていた。
当時(大学卒業時)のラグビーの認知度が、2015年のワールドカップ以後ぐらいであれば、「選んだ道は違ったかもしれない」と話す。
「でも、いま生きている道が一番、と思って生きてきました」
実際にそうなるように努力も重ねた。
「下部リーグでも、これだけやれるチームがある。こんな選手がいる。そう思われるようにやってきた」
そんな13年間をやり切った。
これからは、ラグビー部の採用に関わるポストで部のサポートをしていく。
CTB出身者が、「FWの中心となれる選手を誘いたい」と言うのがおもしろい。
「FWが強いといろいろうまくいくし、チーム全体の雰囲気もいいと思うんです」
リーダーシップある選手も誘えたら。
「仕事とラグビーの両立を目指すモチベーションを持っている人、プレーだけでなく、周囲に刺激を与えられる人に来てほしいですね」
東京ガスといえばラグビー。
そんな声が社内外から聞こえてくるような日が来ますように。
全部員が、このクラブが一番と胸を張って言える日が来るようにサポートしていく。