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【ラグリパWest】四半世紀ぶりの赤黒。河村謙尚[花園近鉄ライナーズ/スクラムハーフ]

2022.04.01

早稲田大から新卒者として25年ぶりに花園近鉄ライナーズに加わった。河村謙尚。スクラムハーフとしてレギュラー奪取に挑む



 25年ぶりの赤黒である。

 河村謙尚(けんしょう)は早稲田から新卒者として花園近鉄ライナーズに加わった。目は輝き、話し方は穏やかで聞き取りやすい。

「すごくびっくりしました。そんなに開いているとは思っていませんでした。今、OBの方がいないのは知っていましたが…」

 四半世紀前、1997年の入部は前田隆介。2人はともにスクラムハーフである。
「後輩が入ってくれるのはうれしいことです。近鉄のラグビーを支えてほしいですね」
 前田は2011年から5年間、監督もつとめた。その前はさらに30年をさかのぼる。1967年入社の犬伏一誠(いぬぶせ・かずま)。センターとして日本代表キャップ1を持つ。

 早稲田は日本のラグビー界で燦然(さんぜん)と輝く。58回を数える大学選手権の優勝は最多の16回。ライバルの明治に3差をつける。創部は1918年(大正7)。その段柄ジャージーは色合いから「赤黒」と呼ばれる。

 四半世紀、早稲田からの新卒者がいなかったことを飯泉景弘は説明する。
「ウチとしてはいい選手にはずっと声はかけていました。ただ、東京がいい、という声が多かったのも事実です」
 現在は現場トップのGM。以前は東日本のリクルートを担当していた。

 関東には東京SG(旧サントリー)など強豪が名を連ね、関西には神戸(旧・神戸製鋼)がある。全国社会人大会(リーグワンの前身)と日本選手権での7連覇は学生を引きつけた。中心の運輸業は地味なイメージもあった。

 河村は「関西人」と呼ばれるのに抵抗はない。小学校まで両親と名古屋で暮らした。中高は東大阪の祖父母宅で生活する。この市域には本拠地の花園ラグビー場が含まれる。
「ここにホーム感があります。中高は青春です。その時期にここで暮らしたのは大きい。街の雰囲気もワイワイしていて好きです」

 競技開始は小1。名古屋ラグビースクールだった。中学は枚岡(ひらおか)。高校は常翔学園を選んだ。
「名古屋には部活がありませんでした。大阪ならラグビーに集中できると思いました」
 楕円球は身近だった。父・剛志(つよし)は京産大から中部電力に入った。現役時代はウイング。2つ上の兄・亮淳はセコムのセンターである。同じ常翔学園と流経大を卒業する。家族は5人。母と一番下の妹がいる。

 河村は高校時代、BKのユーティリティープレーヤーだった。
「スクラムハーフ以外、全部やりました」
 3年時の97回全国大会(2017年度)は石見智翠館に33−43で敗れた。2回戦だった。早稲田には社会科学部のAO入試で合格した。



 大学入学後にスクラムハーフに移る。身長170センチほどと決して大きくないこともその理由のひとつ。最終学年は新人の宮尾昌典にこそ遅れをとったものの、その勤勉さでリザーブの位置を得る。主将や副将らと共にチーム運営に携わる5人の「委員」のひとりにも選ばれた。人望もある。

 最後の対抗戦は2位。帝京に22−29と敗れた。選手権は8強敗退。明治に15−20。帝京はV10を達成する。当時を振り返る。
「もっと厳しくできたかな、と思います。下級生をのびのびさせるため、軽いミスをとがめませんでした。そういうミスが勝負所で致命傷になったりしたように思います」

 社会人ではその反省を踏まえる。地域性以外にもこの紺×エンジのジャージーを選んだ要因はある。
「大学で4年間やったとはいえ、まだスクラムハーフとして、自分の強みを確立できていません。その強みを作りたいのです」

 このチームにはウィル・ゲニアとクウェイド・クーパーという世界屈指のHB団がいる。オーストラリア代表キャップは110と75。彼らの近くでトレーニングを続けることで、自らを高めたい。同位置のゲニアにはすでにアドバイスを受けた。
「ハイパントです。上半身がそっくり返ると蹴れません。腹筋や背筋を鍛えて、上半身を自立させる大切さを教えてもらいました」

 チームには3月1日に合流。入社式は4月1日である。採用は総合職。鉄道や百貨店、不動産などを統べる近鉄グループホールディングスの社長になれる資格を有する。

 思えばこの日本を代表し、グループ全体で3万人ほどの従業員を抱える企業とは縁があった。河村の趣味はプロ野球観戦だ。
「近鉄バファローズのファンでした。小さい時に叔父さんに球場に連れて行ってもらいました。車の中では応援歌を歌いました」
 猛牛軍団は2004年シーズン終了後、吸収合併された。今はそのオリックスを応援する。

 最後のバファローズの球団社長は現在、グループトップの会長である小林哲也である。小林は野球に続き廃部に揺れるラグビー部に出向き、説明した。
「ラグビーは潰さない」
 当時、部員のほとんどは社員だった。社内の士気高揚、試合観戦などの福利厚生、そして広告宣伝のためにラグビーは残した。

 小林は日本一高い「あべのハルカス」を作り上げた。百貨店やホテルが入るこのビルの計画は社内的には追い風ではなかったが、感染症が猛威を振るう前には、インバウンドの象徴になった。ビルのある天王寺は世界中から関西に入る玄関口と認識された。

 その小林は河村にとって早稲田の大先輩にあたる。孫のような後輩に託された使命は、リーグワンの2部から1部に昇格する一助たりえることである。この4月1日から、河村ら新卒者はリーグ戦出場が可能となる。