右を1回、左を2回と、アキレス腱断裂は大学4年時から通算3回。膝と肘の靭帯を切ったこともある。
ケガとの付き合いも長かったけれど、「満足のいくラグビー人生でした」と笑顔を見せる。
東京ガスのLOとして8シーズン活躍してきた坂本駿が2021年シーズン限りで引退した。
仕事とラグビーを両立させる生活はやり甲斐があったし、気に入っていた。しかし、ケガが相次いだこともあり、体のことも考慮した。
「どこかで区切りをつけないといけない。そう思い、決めました。大きな決断でした。でも、すっきりしました」
お世話になった人たちに連絡した。
「あらためて、多くの人たちに支えられてラグビーをしていたと分かりました」
プレーヤー人生最後の試合はホームグラウンドで迎えた。
2021年10月9日の横河武蔵野アトラスターズ戦(31-20)。肘を痛める後半25分までピッチに立ち、?橋湧と交代した。
公式戦のジャージーを着られないまま引退を迎える人もいる。
しかし、自分は幸せだ。ラストゲームもケガで途中交代となったけれど、ピッチに立てた。
「(2021年度が)ラストシーズンと決めていたので、いつ、それが最後の試合になっても悔いが残らないようにしようと思っていました。やり切れました」
最後に背負ったのは背番号4。
「東京ガスに入った頃から外国人選手がいて、彼らが5番のことが多かった。なので、4番には愛着があります」
恵まれた8シーズンだった。
青森北高校入学時にラグビーを始めた。1歳上の兄、雄大さんの背中を追った。山崎久造監督の誘いもあった。
兄弟とも東海大に進学した。PRの兄はホンダに就職した。
185センチ、120キロの体躯を誇る自分自身は、東海大時代にU20日本代表に選出。将来を嘱望される存在として、卒業時には当時のトップリーグの強豪チームからも誘われた。
その中で東京ガスを選んだのは、最初に声をかけてくれたからだ。
「最初に勧誘していただき、熱意を感じました。U20代表の時に中瀬さん(真広/現・ディレクター・オブ・ラグビー)がBKのコーチをされていた縁もありました」
ラグビー選手としてのキャリアを終えた後の未来図が明確だったことも決断を後押しした。
ケガで辛い時期も過ごした。
3度目のアキレス腱断裂後はPRへポジション変更した時期もある。
3年前の春に膝の靭帯を断裂。秋にもう一度同じ箇所を痛めた時には、「引退かな、と心が折れた」。
でも、仲間の奮闘に思い直した。
「そのシーズン(2019年度)はチームが優勝しました。最終戦は秩父宮。観客席にいました。みんなが躍動している姿を見て、もう一度グラウンドに立ちたいな、と」
記憶に残る試合が、もう一試合ある。東京ガスでの初試合だ。
公式戦でもない練習試合。2年目、ヤクルトが相手だった。
大学4年時の5月26日が1回目のアキレス腱断裂で、11月2日に2回目の断裂。アキレス腱が切れたまま入社し、1年目はリハビリに終始した。
2年目の春シーズンだった。ケガ人が出てスクラムがノーコンテストとなり、「PRだったら出られるぞ」と声がかかる。
「がむしゃらにプレーして、トライもできたと思います。試合後、初めての試合だからと、みんなの前で話をすることになりました。感極まって泣きました。ラグビーに戻ってこられて嬉しくて。U20代表でサクラのジャージーを来た時も感激しましたが、ラグビー人生でいちばん嬉しかった」
体は大きく純情。青森出身のFWらしい。
社業に一層力を入れながら、これからもスタッフのひとりとしてチームに関わっていく。
たくさんの愛情を注いでくれそうだ。