トライの時とは違う独特の歓声が好きだった。ハードタックルが決まったときに起きるどよめきが。
金淳英(きむ・すにょん)がラグビー選手としての人生を終えた。
25歳のCTB。東京ガスラグビー部でのプレーは4シーズンと短い。
常に相手に全力で体をぶつけるがゆえのドクターストップが理由だ。
ハードタックラーとして仲間の信頼を集めてきた。
2年前(2020年)の年末だった。ブレイクダウンの練習時に頭部を打撲する。頭蓋骨にダメージを負った。
入院、リハビリ、経過観察を経てドクターの診察を受ける。次に衝撃を受けた時のことを考えるとプレー継続不可と宣告された。
社会時ラグビーで過ごしたのは短い期間も、たくさん仕事をした。ラグビーも精一杯やった。
クラブの伝統が好きで、先輩たちの背中を見て必死で日々を生きた。
関西学院大学在学時、国内のトップレベルでプレーしたいと考えていた。実際、声をかけてもらったこともある。
しかし、先に誘ってくれた大学OBで、東京ガスラグビーでの生活に誇りを持っていた西尾風太郎氏の情熱に触れ、決断した。
正解だった。
東大阪朝鮮中級学校でラグビーを始めた。体が小さく、レギュラーになれなかった。
タックラーとしての目覚めは大阪朝高に進学してからだ。タックルとディフェンス。呉英吉監督の指導方針とセレクションポリシーを知り、それを磨けば出場機会を得られると必死に取り組んだ。
そもそも体をぶつけることが好きだった。タックルはすぐに武器になった。
2年生でベスト16、3年時にベスト8と花園で結果を残したチームに貢献した。
ハードなプレーの原点は負けず嫌いな性格にある。
大阪朝高ラグビー部の歴史を紡いできた先輩たちは、大会参加の道がなかったところから苦難を乗り越えてきた。
金は、一歩一歩実績を積み重ねてきたその歴史をさらに輝かせようと、相手に立ち向かった。チャレンジ精神と反骨心にあふれていた。
タックルに目覚めた少年は、相手と対峙しても怯むことはなくなった。
食い込まれれば、気持ちで押し負けたと、ベクトルを自分に向けた。もっと前へ。もっと強く、激しく出なければ。
そのプレースタイルゆえ、ダメージが肉体に蓄積されていったのかもしれない。
一体感を強く感じられるところにラグビーの魅力を感じていた。
仲間との連係。暗黙の了解で動き、思い通りの結果を得られた時の達成感。つながり合う。
ルールの中で激しくやり合い、戦いが終われば握手。性に合っていた。
大学時代は1年時に関西大学リーグで優勝を経験するも。2年時に入れ替え戦へ(残留)。3年時は指導者不在の中、自分たちで考え、動き、入替戦を回避した。
4年時は大学選手権出場を相手のサヨナラPGで逃す。しかし、ケガを抱えながら目標へ向かい続けた日々は宝。今後も人生を支えてくれる。
「ラグビーに取り組んできたときの無我夢中さ。あの頑張り、集中力を仕事の場でも出していきたいと思います」
引退を決めたあと、高校時代の恩師、呉監督に報告の電話をかけた。
恩師は「お前が電話をしてきたということは、だいたい察しがつく。頭だろ」と言った。
「ばれていました」と回想する金に、こんな言葉を贈ってくれた。
「ラグビーができなくなったのは、何かのお達し。次のステージで活躍するきっかけになる。お前ならできる」
大学4年時の指導者、牟田至監督は普段と変わらず穏やかだった。
「大阪に帰ってきたら飲みいこうや」
いつも、さりげない優しさで接してくれる人だ。
春からは、BKコーチとして東京ガスラグビー部への貢献を続ける。
「距離感の近いコーチになりたい。指導陣と選手の間で潤滑油役になれたらいいですね」
恩師たちのように、包み込むような存在になる。