湯浅大智が読んでいる本を見せてくれた。全国大会前だったように記憶している。
『孫子の兵法』
どうしたの、この本?
「すすめられて、いただきました」
得たものは?
「戦いはしないほうがいい。でもやるなら負けないようにしないといけません」
この書物をそばに置き、不惑の監督は年末年始の大会で全国を制した。東海大仰星にとって6回目、歴代4位の記録となる。
原典の『孫子』は中国の春秋戦国時代に書かれた。今から2500年ほど前のことだ。孫子は戦いのバイブルとなり、日本にも多大な影響を与えた。戦国大名、武田信玄の旗印「風林火山」はここから引いている。
千葉堅次(けんじ)。この孫子の兵法を湯浅に手渡した人物である。
「古きをたずね、新しきを知る、です。湯浅先生と知り合った時期はよく覚えていません。ただ会えば、今なにを読んでいますか、と尋ねてこられます」
読書好きな日本一監督にとって、千葉は書評家としての側面もある。
千葉は今年83歳。卵型の顔の血色はよく、太いしわは刻まれていない。瞳は子供のよう輝く。これまで、この競技を志す高校生を学習面で支えて来た。履歴書がある。
<1995年から大阪工大高でラグビー部員の進路指導に加わる>
四半世紀に渡り、小論文の書き方を教える。校名は2008年から常翔学園に変わった。仰星の支援者のように映るが、元々濃い交わりを持つのは同じ府内のライバル。全国大会優勝は仰星よりひとつ少ない5回である。
千葉の指導は簡潔。ポイントは4つ。
①起承転結を考える。
②書くことを苦痛に思わない。800字は読めば2分ほどで終わる。
③普段からの勉強が大事。何か事が起こった時、それに対して自分の意見を持つ。
④自分の言葉で書く。評論家の文章を真似たりすると相手に伝わらない。
福本航平は慶應の新3年生。千葉の助力があり、AO入試で環境情報学部に合格した。父の正幸には感謝がある。
「練習が終わって、航平は千葉さんに論文を見てもらって、ごはんまでいただいて帰って来ました。本当にお世話になりました」
父はコベルコ神戸スティーラーズの現場トップ、チームディレクターである。
千葉が楕円球を持った時間は短い。高校の体育の授業が中心。藩校の流れをくむ広島の福山誠之館(ふくやませいしかん)だった。大学は國學院。入部はない。
「ラグビーはおもしろいですね。みんながひとつになって戦います」
そこに魅せられ、OBも顔負けの活動を長年続ける。
「お金は一切もらっていません。生活はできていますから」
ラグビーにおける奉仕の精神が底にある。
常翔学園との関りは小論文の指導よりさらに10年ほどさかのぼる。仕事からの帰り、淀川の河川敷に座って練習を眺めた。
「まだ野上先生がコーチの頃ですね」
野上友一は現監督である。
いつしか、ついたあだ名は「土手のおっさん」。スーツにネクタイ姿に興味を持った先代監督の荒川博司が声をかけてきた。
「荒川先生は最高のスポーツ指導者です」
部員たちのオフサイドをいさめる。
「黄色信号で道を渡るか」
遅刻を怒る。
「キックオフが始まってから来るか」
自身は待ち合わせの30分前には集合場所にいた。2001年3月1日、がんのため他界する。63歳だった。
千葉は荒川のひとつ下。勤め先は三洋電機だった。本社は大阪・守口(もりぐち)。2011年、株式交換によりパナソニックの完全子会社になる。そのラグビー部はリーグワン、埼玉パナソニックワイルドナイツの前身だ。
創部は1960年(昭和41)。リーグワンの前身である全国社会人大会、トップリーグで1回ずつの優勝があり、日本選手権は3回制している。企業として力を入れたスポーツはラグビーとバドミントン。シャトルの代表格は北田スミ子(現姓・芝)である。全日本総合選手権のシングルスで最多8回の優勝を誇り、1988年、公開競技だったソウル五輪で銅メダルを得た。千葉は20年以上、宣伝部に籍を置いたため、部署を超えて知己が多かった。
「宮本や児玉、それに氏野なんかは仕事の話をしたりしました」
年齢順にいけば、氏野博隆、児玉耕樹、宮本勝文。氏野はウイングで、現在は天理大のスカウト。児玉はスクラムハーフ。宮本は三洋電機や同志社大の監督を歴任、バックローだった。3人ともに同志社大出身。日本代表キャップは氏野が12、宮本は10を持つ。
千葉の60歳定年は1999年。三洋電機で会社員人生をまっとうできた。宣伝部ではコピーライターとして働いた。その経験が論文指導の骨子になる。
今は指導からは遠ざかってはいるが、学習は欠かさない。絵本を読んだり、童謡を書き写したりしている。
「バカにしてはいけません。子供用の文章は一番難しい。学ぶべきことはいっぱいあります。80を超えても勉強です」
絵本は簡単な単語で世界を構成しないといけない。幼い頃に触れたもののすごみがわかる。「温故知新」。湯浅に孫子を手渡した思いはここにも生きている。