俳優のようなきれいな名前。爽やかな笑顔。だけどプレーはいぶし銀。
しつこくタックルし、下のボールに体を投げ出すFLだった。
阿井宏太郎の名前とプレーを記憶している人は少なくないだろう。
茗溪学園時代は高校日本代表に選ばれ、慶大、東京ガスとプレーを続けた。
社会人になって11年間、ラグビーと仕事の生活を両立してきた。
社会人で10年間やろう。
そう思っていた。それが1年延びたのは、コロナ禍で2020年度のシーズンが中止になったからだ。
もう1シーズンやると決めた。
10年という区切りにこだわったわけではない。やり切りたかった。
2021年度は毎日の練習に、もしケガをして、その日が現役最後の日になっても納得できるように全力で集中した。
結局、公式戦には出場できなかった。だけど、潔く身を引いた。
「(晩年は)試合出場が減ってきていました。チームに貢献できなくなってきたので決断しました」
公立校へガス空調を営業する職場。仕事のウエートも増し、ラグビーとの両立は、11年間でいちばんきつかった。
それでも、引退を決めた後もボールに触れたくなる時があるから不思議なものだ。
「きつい練習を終えたときの充実感。試合に勝ったときのみんなと喜ぶ時間。それらがなくなると、やっぱり寂しいですね」と話す。
4歳のときにラグビーを始め、そのツクバリアンズジュニアで小6まで続けた。
中学でもラグビーをプレーできる環境を求め、茗溪学園へ。高校時代は花園にも出場し、高校日本代表にも選ばれた。
青春の詰まった学生時代は人生の宝物だ。大学4年時の早慶戦は忘れられない。
2010年11月23日、戦前の予想を覆して早大に10-8で勝った。
タックルの雨を降らせ、才能あふれる相手にトライを1つしか許さなかった。
満員のスタジアムを震わせたその試合内容は忘れられない。そして、試合前の記憶も一生ものだ。
試合当日朝の寮でのことだ。食堂で朝食を済ませ、部屋に戻ると1枚のDVDが置いてあった。
試合に出られない仲間からの映像メッセージが収められていた。
最高のメンタルで試合を迎えられた。
ピッチで戦っている選手の力だけがチーム力ではない。試合に出られない選手の思いも含めたものこそ、チームの持つパワー。
大学4年時にあらためて体感したことは、その後の人生の芯になった。
東京ガスのラグビー部でも、試合に出ればプレーで全力を尽くし、出られないなら、自分の持ち場で仲間を支えた。
チームは、職場にも置き換えられるだろう。その場その場で、自分が必要とされることを考えた。
年に何度かある秩父宮ラグビー場での試合が好きだった。
職場や仕事関係の人たちが観戦に来てくれる。日常と違う顔の自分を見てもらえた。
翌日、会社で同僚や他の部署の人から声がかかる。
ラグビー部と会社の距離を近く感じる月曜日だった。
150人前後の全部員が、大学日本一を目指す大学ラグビーのようにはいかないのではないか。
年齢も、バックグラウンドも違う人たちが集まる社会人ラグビーでは、学生時代のような一体感を持つのは難しいと思っていた。
でも、大森グラウンドに行ってみたら、すぐに分かった。誰もがラグビー愛にあふれ、仕事をやりくりし、ラグビーの時間を作ってグラウンドへやって来る。
「一人ひとりの想いの強さをいつも感じていました。このチームが好きでした」
社会人になっても熱くなれたのは仲間たちのお陰だ。
ありがとう。
4歳と2歳の息子たちもラグビーをやってくれたら嬉しい。
自分を成長させてくれたスポーツだ。それぞれのポジションに特性があって、どんな人でも活躍できるのがラグビー。
人生の縮図と言っていい。そこで多くの感動を味わってほしい。
これからも東京ガスのラグビー部とかかわっていく。チーム広報として、ラグビーと一人ひとりの魅力を広める。
チームへの貢献は、これからも。