「世界平和のためにラグビーをします」
吉本大悟は夢を語る。
東海大仰星の司令塔として先月、チームを6回目の全国大会優勝に導いた。その高3生の内面には崇高で壮大なものが宿る。
「ワールドカップを見ていると国籍や肌の色に関係なく、スタジアムがひとつになっていました。すごいなあと感じました。自分がそういう場所でプレーができる選手になれればいいなあ、と思っています」
尊敬するのはネルソン・マンデラ。南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトを撤廃させる芯になり、1994年、大統領に就く。
吉本を傾倒させたのは仰星コーチで国語教員の坂尻龍之介だ。春、学期が始まる生徒たちを前に「世界平和を目指す」と言った。その言葉に感動する。勉強を重ね、ノーベル平和賞を受けたマンデラに行き着いた。
世界平和を思う中、吉本にとっては初の全国制覇。あるのは周囲への謝意だけだ。
「感謝しかありません。湯浅先生、能坂先生、坂尻先生やラグビーの部員だけではなく、担任や科目担当の先生、食堂の方もそうです。日本一の環境って、こういうことなんやな、って感じました」
湯浅大智は監督。能坂尚生はコーチ。2人は保健・体育の教員でもある。
吉本はスタンドオフとして堂々の体を持つ。 182センチ、92キロ。光るのはその蹴り。いわゆる「50/22」を全国舞台で魅せる。
「印象深いのは常翔学園での1本です」
8強戦。前半8分、自陣の深い位置からゴール前へボールを蹴り込む。転がせて外に出した。距離70メートル。そのマイボールのラインアウトを起点に、ロックの楠田知己がチーム2本目のトライを挙げた。
「蹴り方はスクリューと変わりません。ただ、遠くに飛ばすように足は思いっきり振ってはいません。ボールを落とすポイントは感覚です。このキックは少し得意です」
はにかんだ笑顔が浮かぶ。
4強戦の東福岡、決勝戦の國學院栃木でも同じようなキックを披露する。
「試合などで調子が悪いと、次の日に1時間ほど蹴ったりします。ボールを出してもらって、捕ってもらいます。その練習につきあってくれた人たちもありがたいです」
ここでも謝辞が出る。
キックを含めた仰星アタックのサインは吉本が出す。その時の心もちを言われた。
「大事なのは決断やで」
助言は文字隆也(もんじ・たかや)。リーグワンのトヨタヴェルブリッツで採用と普及を担当する。現役時代、同じ位置だった。
じき34歳になる文字は亡き父・康伸の教え子だった。伏見工(現・京都工学院)、法大、トヨタときらびやかな経歴だが、その始まりは京都の修学院。父はその中学でラグビー部監督と保健・体育の教員だった。
「僕がラグビーを始めてから、文字くんには熱心に教えてもらいました。去年の夏には一緒にお墓参りにも行きました」
父は吉本が生まれた7か月後に亡くなった。病名はがん。39歳だった。
「威勢がよくて、生徒の面倒見がよかったね」
松林拓は忘れない。京都工学院の前監督は若かりし頃、嘉楽(からく)で中学教員として父と同僚だった。松林は2つ下。同じ伏見工で「泣き虫先生」こと山口良治の薫陶を受ける。父はフランカー。天理大を出た。
父のことは覚えていない。永遠の別れは物心がつく前だった。その代わり、縁(えにし)に連なる人たちが父になり代わってくれる。
「優勝してくれてうれしかった。こっちから電話をかけたよ。先生が亡くなった時、大悟はまだちっこい、ちっこい子やった。ラグビーを始めてくれた時もうれしかったもん」
松林はこの2月末で55歳。思いがこもる。
吉本が競技を始めたのは幼稚園。京都西ラグビースクールだった。
「記憶がある頃からずっとラグビーボールを触っていた感じがしています」
七条中の監督である古川辰行が母校である仰星をすすめた。この恩師もまた父に下鴨中で教えを受けた。ラグビーは縁が重なるスポーツでもある。
「練習に参加した時、みんなが教えてくれました。ひとつになっている感じで、こんな高校生たちがおるんや、と感動しました」
その仰星で頂点を極めた。花園での活躍が評価され高校日本代表候補にも選ばれる。
「姉の代表合宿参加を見ていたらうらやましい。自分もそうなりたい、と思わせてくれます」
2つ上の姉・芽以(めい)は追手門学院大のロック。今月、女子7人制日本代表の予備軍である「SDS」の合宿に参加した。姉の軌跡を追いかけたい。
卒業後は京産大に進む。先月の大学選手権では4強に入った。10回目の優勝を果たす帝京を30−37と追い詰める。
「厳しい環境に身を置いて、頑張りたいです」
監督の廣瀬佳司は同じスタンドオフ出身。日本代表キャップ40を持つ。
「指導していただくのが楽しみです」
期待に胸がふくらむ。
吉本の尊敬する人物は3人。人としてはマンデラ、ラグビーでは文字、そしてスポーツ選手としては柔道の大野将平だ。
「大野さんは努力する姿勢や表情が素晴らしいです」
大野は73キロ級で五輪2大会連続金メダル。リオデジャネイロ、東京で躍動した。
その3人を仰ぎ見て生きる。自分のプレーで、まずはスタジアムでの世界平和を実現させるために…。