ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】創部100周年に向けて。関西大学

2022.01.28

関大ラグビー部の100周年に向け、気合の入る首脳陣。園田晃将ヘッドコーチ、池原自恩主将、森拓郎監督(左から)



 創部100周年は来年に迫る。

 関西大のラグビーを世紀につなぐ主将には池原自恩(じおん)が選出された。OB会によると第96代目の主将になるという。

 新チームによる年明けの練習開始は1月11日。成人の日の三連休明け。1が3つ並ぶ。

「100周年、知っています。監督に教えてもらいました。カンダイのラグビーを多くの人に知ってもらえるチャンスだと思います」

 池原は商学部に学ぶ新4年生。この日は授業が始まっていたため、集合は午後6時。ブロンコと呼ばれるグラウンドの縦を走る持久力測定やタッチフットをやった

 監督の森拓郎は池原の就任経緯を説明する。
「スタッフで適任者を話し合い、学生たちと面談をして、本人に伝えました」
 池原は驚いた。
「今まで主将なんかをしたことはありません。同期に相談したところ、支えるから、と言ってくれました。その言葉に感じました」

 未経験でも差し支えない。森は言う。
「カンダイのキャプテンは努力ができる人間でないといけません。彼はひたむきです」
 池原は180センチ、94キロ。FW3列目を任される。森も宗像サニックスなどでの現役時代は同じバックロー。この位置が試合の勝敗のカギを握ることを知っている。

「自分の強みは体をぶつけることです」
 池原は生粋のカンダイ・ボーイ。一中から一高に学んだ。現在、関大は初・中・高等部と中高の北陽を合わせ、3つの付属校を持つが、一中からの出身者は「本流」と呼ばれる。学校の源流は1913年(大正2)。周囲からは歴史に対する尊敬がある。池原は100周年へのかじ取りに適している。

 副顧問の桑原久佳も池原と同じ「本流」だ。昨春、監督職を森に譲った。現在は大学職員の本業をこなしながら、強化や新入生採用を担当。側面からチームを援護する。

 森は100周年に向けた新チームを話す。
「新入生はラグビーを絡めた推薦や付属校から15人ほどは入って来ると聞いています」
 東海大仰星からは2人の入部が決まっている。先ごろの101回全国大会では6回目優勝を果たした。歴代4位タイの記録になる。

 その先頭に立つ池原は一中時代はサッカー部。ゴールキーパーをしていた。
「うまくありませんでした」。
 高校で楕円球に移る。
「タックルを決めたら、先輩に褒めてもらえて、それで俄然やる気になりました」
 最初はFB。高2でバックローに定着。大学では2年から公式戦に出場する。



 池原の大学3年間、その成績は芳しくない。1年時は二部のBリーグ。昇格した2020年は7位。変則リーグで3戦全敗も、コロナにより入替戦は実施されず。そして昨年は2勝5敗、勝ち点10の6位だった。摂南、関西学院に競り勝ち、入替戦は回避する。

 その反省を踏まえ、森は新チームの強化点を口にする。
「セットプレーの安定は絶対に必要です」
 森は宗像サニックスの真髄であるアンストラクチャー(乱戦)時の攻守の切り替えを軸に据える。ただ、このラグビーは偶発が占める要素が高い。スクラムやラインアウトモールのセットプレーはこちらに主導権がある。

 森がその部分をおざなりにしてきたことはない。
「去年は1時間30分の練習すべてをユニットだけで終えた日もありました。ウチとしてはやったつもりでした。でも足りなかった」
 勝負は相対的である。

 個々のスクラムを見れば、関西王者の京産大を押した1本もあった。
「その場面を増やしていきたいですね」
 京産大は大学選手権の4強戦で、10連覇の帝京に30−37で惜敗する。関大は昨年の関西リーグで24−59。京産大からの得点は7チーム中最多。FW戦で後手に回りながらの24得点は、乱戦における力の醸成と同時に次のステージへの進行を意味している。

 ヘッドコーチの園田晃将は38歳。多少の自信が芽生えてきている。
「僕がここに来てから勝ったことのない立命に去年は勝ちかけました」
 リーグ戦は17−19と2点差。最後のPGが決まっていれば、逆転勝利だった。

 園田はこれまでリーグ戦で6回、立命館と対戦している。フルタイムとしては森より4年長い9年目を迎える。同じ宗像サニックス出身でひと回り上の森を補佐する。関大が最後にAリーグで立命館に勝ったのは1974年(昭和49)。48−3だった。

 関大は1976年から2012年まで、1年を除き、35年Bリーグだった。スポーツ推薦の復活を軸に低迷から抜け、Aリーグで再び戦うのは2013年。桑原が監督就任3年目で引き上げる。

 その創部は1923年(大正12)。関西の強豪として3番目の歴史を持つ。1911年の同志社、1922年の京大(前身の旧制第三高校は1910年)に次ぐ。58回を数える大学選手権には5回出場。1964年度の第1回大会に出ている。早稲田、同志社、法政とともに、いわゆる「オリジナル4」のひとつである。

「夢は選手権に出ること。僕にとってはラストチャンス。何がなんでも出たいです」
 池原は7大会ぶり全国出場に力を込める。その「じおん」という名の通り生きたい。
「受けた恩を返すことができる人になってほしい、と父がつけてくれました」 
 10年を通った学校に、育ててくれたチームに恩返しをする時期はそこに迫る。紺×白の段柄ジャージーを選手権に出場可能な関西3位にまで押し上げたい。