國學院栃木は27回目出場の全国大会で初めて決勝に進出する。
1月8日、東海大仰星に5−36。準優勝を主将の白石和輝は複雑な表情で眺めていた。
「キャプテンとして引っ張って来たチームが準優勝できたのはうれしいです。でも、優勝できなかった、そして、そのグラウンドに立てなかった悔しさはあります」
白石は脳振とうになった。
12月30日、松山聖陵戦。愛称「國栃」(コクトチ)を率い、LOで先発する。178センチ、95キロの体で前半11分、タックルに行く。味方の頭が当たる。わずかの間、仰向けに倒れ、動けなかった。
「一瞬、気を失いました。でも、すぐに戻りました。記憶は飛んでいませんでした」
意識喪失やけいれんなどの状態に基づき、脳振とうやその疑いと判定された高校生は、安全面から受傷日を含め20日目以降でないと競技復帰ができない。最初の14日間は完全休養。死に至るセカンド・インパクトの防止のため、世界のラグビーを統括するWR(ワールド・ラグビー)からの通達でもある。
白石は3回戦から出場できなくなった。
同じ悲劇に全国大会で見舞われた選手はいる。90回では大阪朝高のCTB権裕人(こん・ゆいん、現・埼玉)、94回では御所実のSO矢澤蒼(現・東京ガス)。2人もエースだった。大阪朝高は桐蔭学園に、御所実は東福岡にそれぞれ4強戦と決勝で敗れた。
以後、白石は試合中の仲間に水を運ぶウォーター・ボーイになった。
「出場できず、悔しかったです。この大会にむけてやってきたのに…」
夏、左ひざを痛めた。10月に手術をして、大会が始まる12月に復帰した。最後の全国舞台にかけていた。落胆は大きい。
監督の吉岡肇は試合後を語る。
「花園の正面ゲートで記念写真を撮ったのよ。白石はキャプテンだから中央に来た。笑っていたと思ったんだけど、画像を大きくしたら、涙をぼろぼろこぼしていた」
その夜のミーティングで吉岡は白石の欠場を部員たちに伝える。
「白石の人生は続く。終わりではない。そして、マイナス1ではない。みんなでキャプテンを抱く、無念を背負う。そうすれば1.1になる。足せば15より強くなる」
副将でCTBの田中大誠は号泣した。
ラグビーマガジンの高校担当は明石尚之。全国大会も連日、取材をした。
「今年のコクトチは傑出した選手がいませんでした。だから、みんなで頑張ろう、と。その先頭に立ったのが白石君でした」
75人の高校日本代表候補には、この濃紺ジャージーからはひとりも選ばれていない。
白石は最終学年、自主的に朝練をした。ひとつ下のLO岡部義大を練習相手に指名。一緒に週3回、1時間を階段の上り下りやウエイトトレに割いた。
その岡部が白石の代わりに先発する。仲間たちは勝ち続ける。流経大柏、長崎北陽台を連破。4強戦は桐蔭学園に21−10。3連覇を狙うAシードをBシードながら倒す。これまでの最高は91回大会の8強進出。田村優(現キヤノン)や煕(現サントリー)の兄弟をそれぞれ擁した代でもこの位置は遠かった。
決勝の仰星戦、吉岡はこれまでの白石のプラス面より、不在のマイナス面を思い知る。前半は5−15で終了した。
「モールで1本トライが獲れたのよ。ハーフタイムでモールがチャンスだって話もしたんだ。でも後半、2回ミスってる。辛抱できず、持ち出しちゃった。白石がいればなあ。コントローラーになってくれていたはずだよ。12−15なら、相手を慌てさせられたかもしれない。決勝まで行けたけど、最後の最後は白石が欲しかった。モールの中で欲しかった」
白石は4歳から知人のすすめで高崎ラグビークラブで競技を始めた。高崎高南中では柔道もやった。FWの強いチームにあこがれ、國栃を選ぶ。JRの両毛線を使い通学は可能だったが、寮に入る。ラグビーにかける。
「國栃に来てよかったです。人としても成長できました。吉岡先生はラグビー以外にも厳しく、礼儀作法も身につきました」
國栃の創部は1989年(平成元)。当時から監督をつとめる吉岡は昨年9月、還暦を迎えた。出身は兄弟校の國學院久我山。恩師になる監督は中村誠。3年時の59回大会はWTBとして準優勝している。目黒(現・目黒学院)に14−16。試合終了間際に逆転された。
久我山は3大会後の62回大会で3回目の優勝を果たす。その時、主将のCTB東末吉史は2回戦でヒザ骨折などを負い、戦列から離れた。決勝戦で目黒を31−0で降した後、中村は東末を呼び寄せて言ったという。
「昭和58年度の久我山優勝は東末主将で成し遂げた、という事実が歴史に残るんだ。それでいいじゃあないか」
差はわずか。「準」がつくかつかないか。その最後の山越えは残る者に託す。
白石は立教大に進む。