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【コラム】強いクボタの「当たり前」を作った人たち。ゴッちゃん、コーチとして次章へ

2022.01.14

2021年、Bチームの試合に最終出場した後藤(撮影:松本かおり)

 開幕前、クボタの広い工場敷地内のグラウンドで行なわれた東芝とのプレシーズン・マッチを取材した。チームを見守る新しいアシスタントコーチの一人にスクラム担当の後藤満久がいる。ゴッちゃんと呼ぶ選手も少なくなった。現役に混じると、一際小さく映る身体。ふくらはぎなら3番PRオペティ・ヘルの腕よりも細い。1季前まで選手だった、しかもフロントローだったと聞けば驚かれるかもしれない。

「こんないい時に選手を終わらせてもらって、幸せやな、と思いますね」

 口調はあくまで丁寧に。淡々と言葉を重ねる。

 とてもシャイな性格だ。しかし、感謝はきっちりと言葉にする。

 チームも自身も山あり谷ありの年月を過ごしてきたからこそ、ぶれない基準を持っている。2021シーズン限りで現役を引退した。一般社員のチームOB曰く、会社側からも定評がある。「後藤は人がしっかりしている」。スクラムの指導でも、言葉が選手たちに染みる。

 

アシスタントコーチとなってスクラムを磨く(撮影:長岡洋幸)

「今のクボタのいいところは、チーム内の仲がいいこと。風通しが良くて若いやつも伸び伸びものを言える。ただ、度が過ぎる時には面と向かって伝えますよ。あんまり調子に乗んなよと。それが選手にもチームにも必要なことやと思うんで」

 

 クボタは’21シーズン、クラブ史上初めて4強に入る躍進を見せた。10年ちょっと前には下部リーグへの降格も経験し、中位でもがき、ようやく花咲く過程を迎えている。この浮き沈みの激しい時代、変わってきたクボタの道のりに、後藤の社会人選手としての期間が重なっている。

 後藤は2008年に入社、京産大では主将も務めたアグレッシブな選手だ。しかし、卒業の頃、将来のラグビーへの意欲は決して高くなかったという。

「正直に言うと、そんなに長くプレーするつもりはありませんでした。3、4年いて、その後は仕事の生活になるのかなと。実はずっと、なんやこのスポーツ、と思っていました。しんどいし、痛いし、社会人になってまで…と」

 選手生活は結局13年に及んだ。

「後悔したくなかったから、やめてくれと言われるまで続けると決めていました。こんなにも自分から熱くなれて、目の前のことに集中できることってないと思えていたので」

 後藤を変えた大きな転機は、4年目の2011年にアキレス腱を切ったことだった。「嫌いだったマルチ(フィットネステスト)で自己最高更新。その直後のスクラムで切りました」。長い長い一人のリハビリ。窓の外の仲間たちの姿がまぶしく見えた。

「あんなにみんなで楽しそうに、しんどそうにやっているのを見て。俺も、ラグビーもっとうまくなりたいと思った。あの時の感情は、初めてだったんですよ。高校でラグビー始めて、初めてそんなふうに思った」

 どうやったらうまくなるのか、強くなれるのか、情報を漁った。ネット動画は宝庫だった。チームの資料動画はもちろん、その興味のままに動画サイトの世界を飛び回る。選手時代からおそらく、チームの誰よりもラグビーを見ている。「他チームの動画もよく見ました。背景に映っている設備を見て、どんな環境でやってるんだろうとか、発見がある」。

 高まる意欲とは裏腹に、ケガは絶えなかった。2013年、今度は反対側のアキレス腱を切った。

「自分の場合は、それでよかった。二度のケガがなかったら、ここまでラグビーを好きになれていない。休みの日は家で寝てた自分が、グラウンド出てきて動くのが当たり前になった」

 しかしケガがなくてもHOのポジション争いは熾烈だった。先輩には荻原要、後輩には明大で3列のエースだった杉本博昭ら。2020年シーズンには、ワールドカップ優勝の看板を引っ提げた南アフリカ代表、マルコム・マークスが降り立った。

 平然と努力を続けてこられたのには、振り返れば二つ支えがあった。

 一つは職場だ。クボタに入って本当によかったと思うのは職場の人を思う時だと言う。いわゆるAチームでプレーするばかりではなかった後藤の試合を、歴代の上司が見にきてくれるのがありがたかった。心を励ましてくれた。わざわざBチームやCチームの試合を選んで足を運んでくれた。そして翌日朝に挨拶にいくと、試合結果に関わらず、「体は大丈夫か」と後藤自身のことを気遣う言葉が返ってきた。

「そんな上司の方ばかり。本当に恵まれていました。私は、自分が過ごした企業スポーツのあり方は好きです。試合に出ることで恩返しがしたいと思っていました」

 もう一つの支えは、ある人がくれた助言だった。「嫁、でしたかね」ととぼける。強大なライバルたちを意識して葛藤していた時、「人なんか見ても、しゃあないやろ」と言われたことが腑に落ちた。自問自答できるようになった。試合でしんどい時間帯、もいっかい立ち上がるんは人か、自分か。ウエイトで上げるか落ちるかの際、シャフトを上げるんは人か、自分か。休みの日に一人でグラウンド行って体動かすんは人か、自分か。

「全部、自分やろ。相手なんか見んなや」

 矢印を自分に向け続けていたら、また気持ちと体が動き始めた。

 振り返れば最後の1年間、トップチームでの出場はなかった。常に「メンバー外」の一員として感じていたのは、若手選手たちの貢献ぶりだ。週あたまのメンバー発表で自分の名前が呼ばれなかった選手たちは、すぐさま「ボルツ」(bolts/船を構成する部品のこと。クボタではメンバー外を重要な存在として昨季はそう呼んだ)となって、出場メンバーのサポートに回る。その週の対戦チームの特徴をコピーして、練習のシミュレーションの精度をできるだけ上げるよう手を尽くす。試合前日にはボルツだけが最も強度の高い練習をこなす。しんどい時に人間は出る。後藤は自らも喘ぎながら、試合前日に歯を食いしばれる後輩たちをみて、「こいつらすげえ」と思った。

 かつての自分を思い出す。我、意地、自尊心か。それは深いところで競技への愛情とつながっている気もする。かつての自分は、それが悔しさとなって溢れ辛抱ができなかった。後輩たちはのみ込んで、ポジティブな何かに変換して発散している。「人として成長するのはボルツのほうだと思う」。

 降格も味わったチームが、少しずつ踏みしめ上ってきた舞台の高さは、試合に出ない選手たちの姿に最もよく表れていた。

 2021年春。チーム幹部に呼ばれて1対1で現役引退を勧められた後藤は、「そりゃ、そうですよね」と和やかに話し、お礼を述べ、淡々と受け止めてクラブハウスを出てきた。13年、日本最高峰のリーグでの挑戦がその時に終わった。あっけないもんだと思う。しかし自宅に戻り、引退を報告すると急に込み上げて気持ちが止まらなくなった。自分の中にもまだ、溢れるものがあったんだと意外で、うれしかった。

 11月のプレシーズンマッチ、昨季初4強の注目チーム、クボタは東芝に33-43で敗れた。ホームの練習場での開催だったため、試合後は予定されていたファミリーデーで楽しんだ。選手たちが仮装して場を盛り上げる中、後藤らコーチ陣の姿は2階のオフィスに消えている。

 後藤満久はアシスタントコーチになって、リーグワンのトップを見据えるチームを支える立場になった。担当エリアはスクラム。相変わらず誰よりも、長くしつこく映像を見ている。よく選手たちと話す。

「やってくれると思います。私は選手を信じてるんで、もう見てるだけです」

 第2節、パンデミックの影響で主力のHOマルコム・マークスはいない。選手の厚みを、クボタの上がってきた階段の高みを見せる絶好の機会だ。

PROFILE
ごとう・みつひさ/クボタスピアーズ アシスタントコーチ/1985年4月5日生まれ、36歳。関西創価-京都産業大-クボタスピアーズ。現役時代のサイズは174センチ、99キロ。家族は妻・亜沙子さん。
2021年、Bチーム戦での突進(撮影:松本かおり)