杜(もり)の都の銘菓「萩の月」が届いた。
高等専門学校(通称:高専)の全国大会本部へ。菓子は品のある甘さ。カスタードクリームを薄黄色のカステラで丸く包む。
差し入れたのは仙台高専の広瀬キャンパス。52回目を数える大会に初出場する。その心遣いが初々しい。
大会は神戸のユニバー記念競技場で1月4日に始まった。その開幕試合で広瀬は函館と戦う。スコアは0−36(前半0−22)。初出場、初勝利とはならなかった。
主将の小綿偉心(こわた・いしん)はSH。初の全国舞台を振り返る。
「全国大会に出ることが決まってから2か月の間、コンタクトの強化に取り組みました。不安が多かったけど、それなりにできたと思います。これも助っ人の人たちのおかげです」
小綿の言う「助っ人」は5人。LOの内海凜生、両WTBの矢田友真(ゆうま)と佐々木瀬那、CTBの遠藤瑞欧(しおん)、リザーブの宮高麻生(あさき)である。内海と宮高は水泳、佐々木は卓球、遠藤は野球の各部に所属。矢田は部活動をしていない。
広瀬の登録メンバーは17人、その3分の1近くを部外者に頼ったことになる。理由を監督の兼村裕介は述べる。
「頑張っている部員がいる以上、全国大会に出してやりたい、という思いがあるからです。もちろん、試合の日に、いきなり出ろ、というのは無理な話。最低でも数か月くらいは練習して出てもらっています」
初心者に対する兼村の指導は受け身から入る。安全を軸に据える。
「倒れ方を言います」
手をつかず、転がる。その上で付け加える。
「相手が走って来て、怖かったら逃げなさい。一番大事なのはケガをしないこと」
兼村は46歳。ラグビーを知る。リーグワンの前身、トップリーグで戦った。2007年度のシーズン。三菱重工相模原のCTBだった。監督だった相良南海夫は覚えている。
「頭のいい選手で戦術の理解度が高く、タテに強い。ディフェンスもよかったですね」
兼村は都立武蔵で競技を始め、仙台大から東北大の大学院に進んだ。広瀬では障害科学の准教授である。
全国大会における東北の出場枠は2。この地区には33年連続42回の出場と優勝は最多の14回を誇る同じ仙台高専の名取キャンパスがある。広瀬の前身は仙台電波工業高専、名取のそれは宮城工業高専。2校は2009年に統合され、日本最大級の高専になる。専門は、広瀬は情報や電子系、名取は機械、電気や材料系などにすみわけされている。
名取を監督として率いるのは柴田尚都。兼村の10歳上で、仙台大の先輩にあたる。
「名取とは定期的に練習などをしてもらったりしています」
兼村が広瀬で教職を得るにあたって、柴田の引きがあった。
昨年、全国大会の東北代表になったのはその名取と秋田だった。秋田は今年、部員不足のため予選出場を辞退。広瀬が戦わずして代表になった。第一代表決定戦はその名取に0−103。主将の小綿の一定の達成感はこの前段があってのことである。その名取は本大会で準優勝する久留米に26−32と逆転負けする。広瀬の次の試合だった。
完封負けしたものの広瀬の初出場にOBや周囲は盛り上がった。部のFacebookでは、遠征費として不足する25万円の寄付を募り、瞬く間に集まる。兼村は顔を緩める。
「OBの方々も喜んでくれました。ご支援をいただき、つながりが新たに生まれました」
創部は1983年(昭和58)。関係者にとってはどのような形であれ、縁(えにし)のあるクラブが全国大会に出るのはうれしい。
広瀬はこの得難い経験を来年につなげられる。助っ人を含めた17人のメンバーはすべて4年生以下。最上級生の5年生はおらず、卒業での戦力ダウンはない。
PRの佐々木駿斗は4年生。体重は122キロ。大会最重量だった。
「春になったら1年生にいっぱい入ってもらって、より強くなって、自分ももっとパワーをつけて戻ってきたいです」
自分と似た大きな体を持つリーグワン・神戸の中島イシレリをお手本にする。
卓球と兼部した佐々木瀬那は3年生。170センチ、54キロと細い体ながらWTBを任された。満足感が漂う。
「やってよかったです。いい経験をさせてもらいました」
主将の小綿とは同じ寮生。誘われ、団体スポーツに興味があって加わった。
ただ、競技を続けるかどうかは分からない。
「まだそこまで考えていません」
ヘルプはあくまでもヘルプ。佐々木瀬那は使命を果たした。あとはクラブ全体での引き留めや新たな部員の勧誘が必要だ。
高専は中学卒業後、5年をかけ、理系の専門分野を学ぶ。仙台高専を含め国立校が多い。卒業後の進路は3つ。短大卒での就職、4年制大学への編入、学内の専攻科でもう2年を学び、大卒の資格を手に入れる道がある。
勉強中心の5年間は広瀬も例に漏れない。その中で全国舞台に立てた。
「キャプテンとしてまた大会に出て、初勝利できるようにやっていきたいです」
小綿は未来予想図を語った。その姿からは希望があふれた。