長いホイッスルが吹かれた瞬間、紺の5番は地面に突っ伏した。37-5。村田裕太は、大きな体を震わせ、顔を涙で濡らしていた。2年生の二木翔太郎、手塚一乃進が抱き起こす。
12月12日に熊谷ラグビー場でおこなわれた関東大学対抗戦の入替戦。A・8位だった立教大はB・1位の成蹊大に完勝した。
「とにかく勝ってよかった。2年前の入れ替え戦を経験しているからこそ、昇格に対してどれだけ懸けてきたのか、知っていました。対抗戦A、秩父宮という夢の舞台でプレーしたい後輩たちが、来年以降できなくなるかもしれないという恐怖もありました。それは絶対させたくないっていう想いから、解き放たれました」
オールアウト。文字通り、すべてを出し切った80分。
想いが溢れた。
東京都で生まれた村田は、自分の大きな体型がコンプレックスだった。小学校時代、歯の手術が続いた影響で学校にも通えず、家で過ごす日が多かった。
高学年になると、周囲の同級生は開成、麻布など進学校を志望した。自分はどうしようか。コンプレックスが相まって、周りに負けたくないという気持ちが強かった。
心に引っかかっていたのは「選ぶのは自由だけど、寮生活はしたほうがいいよ」という両親の言葉だった。
明確な理由はないけれど、それを信じ、寮のある学校しか受験しなかった。
縁あって、函館ラ・サール中学に合格。雪国で、楕円と出会った。
ラグビーには、様々な体格の人がいて、それぞれが活躍できる場所がある。自分のコンプレックスを受け入れてくれ、しかもそれが強みになる。自分の「居場所」がある気がした。
函館ラ・サール時代は、3年生の時に全国大会に出場。花園の芝を踏んだ。
幸運にも、ラグビーマガジンの別冊付録「花園ガイド」の表紙に写真が載ったこともある。
立教に入学後すると、村田を試練が迎える。とにかく、先輩たちに怒られた。
自分の中で合格点のプレーでも、まったく褒められない。大学ラグビーのレベルの高さを感じながら、ダメ出しされる毎日が続く。
腐りそうになるのをなんとか堪え、必死に食らいついた。
愚直な積み重ねが実り、1年生からメンバー入りを掴む。
当時の立教は、対抗戦Bに所属していた。
4年生をはじめ、チームとして並々ならぬ想いを懸けていた入替戦。相手は、この時から成蹊だった。
昇格のために、1年間の時間を費やした。しかし、試合を通じて13回のペナルティを重ねた立教は、そこから得点を許す。
7点差に泣いた。
「当時のキャプテンだった大旗さん(山本大旗)は、すごく厳しかったです。私生活のところでも、ずっと入替戦を意識しているのを間近で見ていました。自分が試合に出られないことも悔しかったですけど、その大旗さんが泣いているのを見て、すごく胸が痛かったです」
託された想いに応える。
1年生ながら、その難しさを目の当たりにした。
ひとつのミスで負ける。
そのペナルティで負ける。
新チームの練習が始まると、身に染みて学んだ教訓を徹底した。
練習の温度、緊張感は前年を上回った。何より前年、4年生を勝たせてあげられなかった後悔。昇格への想いが強まった。
村田にとって、2回目の入れ替え戦。試合は、ロスタイムに入っても競っていた。
立教は50フェーズを超えるアタック末、同点トライを挙げる。コンバージョンを決め、逆転した。
前年負けた成蹊を相手に勝利を挙げ、念願の昇格を果たした。
ペナルティは6回と、前年の半分以下。丁寧に積み重ねてきた練習が実った。
2020年度はコロナ禍で入替戦がおこなわれなかった。
立教は同年、2021年度と2シーズンをAで戦った。
今季、立教は厳しい試合が続いた。対抗戦Bでは圧倒的強さを誇っていたが、昨季に昇格したAは、青山学院に勝っただけの1勝だった。
そして今季も帝京、早稲田、明治など上位校にスコアを広げられる。ターゲットゲームと定めていた青山学院、日体大に敗れ、筑波との接戦も落とした。
それでも、いい変化があった。
スタッフの1人、馬上桃代(3年)は言う。
「(以前より)ひとつひとつの試合を大切にしているのを感じました。分析だったり、チームトークだったり。ターゲットゲームの前になると、私まで緊張するようになりました。お守りなんて持ったことなかったですけど、日体と青学の時はずっと握りしめて…。自分がプレーしないのに、こんなに緊張できるんだって周りのスタッフとも話していました」
入替戦への出場が決まった。
なんとしても、守り抜く。対抗戦Aという舞台を後輩たちに残したい。ただ、この試合は、麻生典宏主将をはじめ、多くのリーダーをケガなどで欠いた。スターター15人のうち、4年生は4人。若いチームが、いつもと変わらない空気で臨めるよう、後輩たちへの声かけを増やした。
試合の5日前、麻生、ゲームキャプテンを務める山本開斗の2人から、村田はある依頼を受ける。
「入れ替え戦がどれだけ重要な試合なのか、お前の口から話してほしい」
2年前、立教が昇格した時、村田は同期で唯一のメンバー入りを果たした。入替戦は、対抗戦とは別物。そのことは村田自身が身をもって感じていた。
「入れ替え戦は『総力戦』だと、シーズン前から言われていました。春シーズン、成蹊に大勝しても、入替戦では負けてしまうという話を聞いた当初は『そんなことあるの?』と理解できなくて。でも、実際、入れ替え戦に出ると分かりました。気迫とか、想いが全然違いました」
先代がどれだけの想いを懸けて昇格に辿り着いたのか、どんな想いで入れ替え戦を闘ったのか、自分の言葉で真っ直ぐに話した。
みんなの空気が引き締まったのが、嬉しかった。
12月12日。立教は、対抗戦Aの座をしっかり守った。村田は、最後までスタンドに頭を下げた。
「感謝の気持ちは、あそこ(グラウンド)でしか表現できないと思ったので」
13歳の頃から寮生活を支えてくれた両親は、立教に入ると、グラウンドのある埼玉・志木に、都内から実家を移した。食事を毎食作ってくれ、あらゆる面でサポートしてくれた。
ハーフタイム、麻生は「村田しかいないから。チームを頼んだ」と想いを託してくれた。
いつも一緒にいたけど、試合に出られない仲間たち。コーチ、スタッフ、卒業生にたくさんのファン。
誰かのために闘えていた。それが幸せだった。
いま振り返ると、そう思う。
大切にしている言葉がある。
「辛い時こそ、丁寧に」
函館ラ・サール時代、荒木竜平監督(当時)が教えてくれた。これを信じて、やってきた。フル出場した村田は、後日、取材に松葉杖で現れた。試合中、辛い時間帯を乗り越えて最後まで体を張れたのは、4年生としての責任と、この信条があったから。
自分ではない誰かのために。すべてを出し切って、辿り着いた境地。ラグビーが教えてくれたことは、この先もずっと、村田の中で生き続ける。