ラグビーバカ。
早大監督就任、2年間730日。
失意の英国挑戦。ラグビーへの恩返し
ラグビーバカと言われてもおかしくない。
タックルマンこと石塚武生さんは、古びたラグビーノートに消えかけた黒字でそう、書いている。こう、つづく。
〈バカとは、言葉でいうバカではなく、ラグビーにとことん打ち込んでいるという意味である。ほんとうに一生懸命にやっている事である。金銭的、物質的にハングリーではなく、精神的にハングリーでいたい。そして、常に自分に不満でなければいけない〉
石塚さんはラグビーに生きた。愚直すぎるほど。
170センチ、74キロのからだでタックル、タックル、またタックル。早稲田大学で主将を務め、卒業後はリコー、伊勢丹にてプレーをつづけた。日本代表選手に与えられるキャップは当時としては最多の28を数えた。常にからだを張り続けた。
1994(平成6)年、早大の2年先輩にあたる宿沢広朗さん(2006年没・享年55)が母校の指揮をとることになり、石塚さんもフォワード・コーチとしてスタッフ入りした。
石塚さんはこう、心中を吐露している。
〈宿沢さんが考えるラグビーに対して100%お役に立つことが自分の義務であり、責任でもある。自分が選手に教えてあげられることは、結局のところ、ファイティング・スピリット、あるいはハングリー精神といったハートの部分であると思う〉
早大はこの年度、全国大学選手権決勝において、トンガパワーを軸とした大東文化大に41-50で敗れた。
石塚さんは翌1995(平成7)年度も、“鬼のキモケン”こと木本健治さん(1996年没・享年56)の監督のもと、コーチを務めた。早明戦では下馬評覆して勝利(20-15)を収めたが、大学選手権決勝ではその明大に9-43で大敗した。
この年の9月19日、早大監督、日本代表監督を歴任した大西鐵之祐さんが天国に召された。享年79。世相をいえば、1月に阪神・淡路大震災が起こり、3月には地下鉄サリン事件が発生した。とんでもない年だった。
また、パソコン界の「維新」ともいえる「Microsoft Windows 95」が日本で発売が開始された年でもあった。
石塚さんは、体調を崩した木本監督のあとを受け、1996(平成8)年、早大監督に就任した。監督という立場になると、勝ち負けに対するプレッシャーがまったく違う。当時、43歳。伊勢丹に籍を置きながら、母校の監督を2年、続けることになった。
石塚さんは自著にこう、書いている。
〈監督業を経験して、ひとつのチームを指導する責任の重さをずっしりと感じたものだ。選手たちの指導のほか、生活面のサポート、外部との交渉など、やらなければいけないことがたくさんある。だが、最終的には自分のチームが“勝利したかどうか”という結果が、監督のすべてだ〉(「炎のタックルマン 石塚武生」、ベースボール・マガジン社)
連載最終回には、我が早大ラグビー部同期の本城和彦さんに登場してもらおう。現役時代、「プリンス」と呼ばれ、その女性ファンからの人気たるや凄いものだった。筆者がバレンタインデーで3つのチョコレートをもらったら、彼は100個のチョコをもらっていた。
そのプリンスも、筆者と同じ61歳となった。携帯に電話をかける。年齢のことを言えば、「お互い、トシとったね」と小さく笑うのだった。
7人制日本代表の監督や日本ラグビー協会の要職などを務めた。サントリーから日本テレビなどを経て、現在、フィットネスクラブ運営会社『ティップネス』の役員を務める。
SOだった本城さんは石塚さんの國學院久我山高校、早大の後輩にあたる。日本代表でも一緒に何度もプレーした。ラグビーナレッジ(知識)はすこぶる高い。早大の石塚監督とともに、ヘッドコーチを務めた。
本城さんが、石塚さんから電話をもらったのは、1996年の2月下旬のことだった。休日で家のリビングでのんびりしている時だった。
「ヘッドコーチをやってほしい」
「ある程度、チーム作りを任せてもらえますか」
「もちろんだ」
そんなやりとりがあって、本城さんはヘッドコーチを引き受けたという。「石塚さんはどんな監督だったの?」と聞けば、しばし考え、こう漏らした。
「石塚さんは、人を気持ちよくさせて、プレーさせるマネジメントがうまい人だった。そういうところは、非常に気を使いながらやる。やさしい。学生に対しても、突き放したような言い方は絶対にしないんだ」
1996年度は、中竹竜二主将らが健闘したが、早明戦、大学選手権決勝と、二度、ライバル明大に敗れた。1997(平成9)年3月、早大は創部80周年記念事業として、全早大を編成し、アイルランド、英国遠征を実施した。
忘れられないことがある。この時、筆者は共同通信社記者としてニューヨークに駐在していたが、遠征先のロンドンから電話をもらった。「イシヅカだけど。久しぶり」。突然の、懐かしい声に驚いた記憶がある。
「ニューヨークで元気にやっているか?」
話の内容は忘れたが、そういった後輩思いの人だったのだ。
1997年度、石塚監督が続投した。
サントリーに勤務していた本城さんは業務の多忙もあって、グラウンドに行ける日が1年目より少なくなった。ヘッドコーチからバックスコーチになった。主力に故障者が相次いだこともあって、石川安彦主将らのチームは苦しんだ。
早大は、秋の早慶戦で完敗、早明戦でも敗退した。大学選手権では2回戦で、大畑大介さんを要する京産大に18-69で敗れた。51点差は過去最多得失点差の屈辱だった。年を越すことができなかった。
本城さんは言った。
「指導者として、石塚さんを男にしてあげられなかったのが残念なんだ」
当時の和泉聡明主務はこう、『早稲田ラグビー100年史』に書いた。
〈常に伝統校としての旧き良き伝統・しきたりが根底にあった。白装束のジャージ、1年生の1時間前アップ、理不尽な科学を体現した新人練等。我々が伝統に依拠していた中で、依拠すべきものが無い新興系の大学は部活動の枠を超えた取り組みをしていた。当時は関東学院大の躍進目覚ましたかったが、天然芝のグラウンドで我々と全く違う練習をしていたのを覚えている〉
石塚さんは失意の中、早大監督を辞任した。監督就任以来、東京・保谷市の東伏見のラグビー部寮に住み込み、ほぼ730日間、グラウンドに通いつめた。
ただ、それほど情熱を注ぎこんでも、チームは勝てなかった。ショックだっただろう。石塚さんの独白。
〈何より自分を信じてついてきてくれた部員たちに、ラグビーの素晴らしさを教えてやることができなかったんじゃないか、と思えてきた。だから、この敗戦は自分のラグビーへの思いもすべて否定されかねないほどの重さがあった〉
原点回帰だろう。石塚さんは11年間、在籍した伊勢丹に辞表を提出し、1998年、単身でイングランド・プレミアリーグの強豪「リッチモンド・クラブ」の門をたたいた。無給の控えチームのマネジャー、つまり雑用係となったのだった。
書きたくないが、石塚さんは監督時代の部員の不祥事が発覚し、監督責任を問われ、一時、早大ラグビー部OB会を除名されたこともある。
実は本城さんにとって、石塚さんの存在は大きかった。初めてタックルマンを知ったのは中学2年の時だった。「なんで石塚さんを認識したかというと」と続けた。
「当時、石塚さんは大学生だった。メディアでトライするシーンの写真がよく使われるじゃない。トライのそばで必ず、写っている人がいるわけ。それが、石塚さんだった。藤原さんがトライする時も、植山さんがトライする時も隣で写っている。この人は誰だろうって。結局、石塚さんはよく走っているわけよ」
本城さんにとって、早大ラグビー部に入ることが目標となった。その過程として、國學院久我山高校に進学したのは、石塚さんの存在もあったからだった。同じアカクロのジャージを着た。同じ桜のジャージを着て、海外の強豪とも戦った。これも縁だろう。
本城さんの述懐。
「石塚さんには、すごくかわいがってもらったし、お世話にもなった。よくご飯にも連れて行ってもらった。何て言うんだろう、常に人生の決断をする時に出てくる人だったんだ」
本城さんは早大3年の時、日本代表入りした。
「石塚さんは素晴らしい選手だった。良くも悪くも、ストイックだった。いいのはさ、日常生活にそのストイックさを持ち込まないところかな。お酒も飲むしね」
こんなことがあった。日本代表の合宿でのことだ。当時は、キャプテンだけが宿舎で1人部屋だった。少し笑いを交えながら、こう続けた。
「最初にジャパンに選ばれた時かな。キャプテン部屋に呼んでもらって、いろいろと話を聞かせてもらった。言っちゃいけないかもしれないけど、石塚さん、眠れなくて、時々、寝酒をしていたんだ。部屋にはウイスキーのミニチュアボトルがあってさ。ラグビーに対する強い思いをどういう風にコントロールするか葛藤しながらやっていたと思うね」
石塚さんは英国挑戦から帰国すると、プロコーチとして、社会人の九州電力や東京農業大学などを臨時に指導した。定職はなく、生活は厳しかった。でも、ラグビーがあった。
2001年から5年間、日本ラグビー協会の普及育成担当などを務めた。2006年、茨城・常総学院高校ラグビー部の監督に就任した。
2009年8月6日、前日まで長野県菅平高原でコーチ合宿に参加していたが、突然死症候群でこの世を去った。享年57だった。2021年8月、13回忌を迎えた。
この連載を続けている間、何人もの人からメールや手紙をもらった。こんなものもあった。旧知の東郷さんからだ。
〈日本協会でも、伊勢丹でも、常総学院でも、誰よりも早く来ていたのですね
そして、孤高の印象。
常総学院では朝の交通整理。結局、最後はひとりぼっちでやられていたと聞きました。
僕たちのように、石塚さんを頼っていた人には、優しく接してくださいました。弱い者にとびきり優しく。
忘れません。2002年国立競技場。ジャパン対イングランドの試合。入場整理を石塚さんがやっていたのに驚きました。試合が始まると、バックスタンドで、僕たちの目の前でジャパンの応援団長となったのです。
「なぜ、そこまでやられるのですか。何をやっているんだ、と言っている人もいます」と伝えました。石塚さんは子どものように笑って言いました。
「ラグビーへの恩返しです。プライドは胸の奥にしまって」〉
最後に。
再び、本城さん。
「石塚さんは、頭の中にはラグビー界からの引退という文字はなかったんだと思う。とにかく、できるところまでいくということで、チャレンジされていた。そういう意味でラグビーに対する情熱は凄い人だよね」
刹那、言葉が途切れた。石塚さんをひと言で例えると。ラグビー発祥物語の伝説のエリス少年の生まれ変わり? と筆者が振れば、本城さんは「ははは。オレ、エリス少年、知らないから」とクールに笑った。
「そうだな。ラグビーに寄り添って、ラグビーを生きがいにして、ラグビーと共に生きられた人でしょ。だから、ラグビーを恋人というか、生涯の伴侶としたのでしょ」
ふと、ラグビーワールドカップ日本大会の年に流行った米津玄師の名曲『馬と鹿』のメロディーがよみがえった。バカとも読めるが、実は「高貴さ」との意味もある。
〈歪んで傷だらけの春〜♪〉
繰り返すが、石塚さんはラグビーにラブし、ラグビーをする人を大切にした。とくに子どもたち。石塚さんが遺した数冊のラグビーノートや資料をめくっていたら、長野・菅平高原の「初音館」というホテルの黄ばんだ便せんが一枚、ひらりと落ちてきた。
何だろう。よく見れば、テレビのチコちゃんと同じ5歳の女の子からの手紙だった。一生懸命に鉛筆で書いたのだろう、力強く、ぎこちない字がてんでバラバラに並んでいる。
〈いしづかさんへ
さいん してくれて どうも ありがとうございました また らいねんも きてください まってます いしづかさんのことは わすれません 5さい るみこより〉
石塚さんにとっては、宝物だったのだろう。励みだったかもしれない。その手紙を目にした時のタックルマンのはじけるような笑顔が目に浮かぶのだった。
※タックルマン石塚武生の青春日記はこちらから読めます。