ラグビーリパブリック

タックルマン石塚武生の青春日記⑭

2021.12.14

1975年、当時世界最強と言われたウエールズ代表が来日。日本代表と戦った。(BBM)



ショックの日本代表漏れ。
悪夢の骨折。涙の代表復帰。
ラグビー少年の魂、抱きて。


 1976(昭和51)年、順風満帆だった石塚武生さんのラグビー人生が暗転する。
 <この年は、自分の人生にとって、もっともどん底の年だった>。石塚さんは古びたラグビーノートにそう、書いた。リコー入社2年目の23歳。こう続く。

<同時に自分の生き方というのを決定づけた年だったのである。自分はいつの日からか、ラグビー一色の生活をしてきた。一日一日の生活のサイクルをラグビーのためにと思い込んでいた。そんな悲壮感にあふれていた。もちろん、仕事とラグビーを両立しなければいけない。仕事の後、遊びにも飲みにもいかないで、ラグビーに集中していた。そんな時>

 世相をいえば、アメリカでロッキード事件が発覚し、国内では東京地検特捜部が田中角栄前首相を逮捕した。ヒット曲が、子門真人の『およげ!たいやきくん』、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』、そして中村雅俊の『俺たちの旅』。そんな時代だ。

 石塚さんはリコー入社1年目の秋には日本代表のフランカーとして、“赤い悪魔”の異名をとったウエールズ代表戦(●6-82)に出場し、快足ウイングのJ・J・ウィリアムズに猛タックルを浴びせた。九州の田舎の筆者など多くの若者を感動させた。

 だが、この年の3月、石塚さんは日本代表のフランカーとして来日したニュージーランド学生選抜戦に出場し、パワーで圧倒されて大敗(●6-44)を喫した。そこで日本代表の強化の方針は大型化に傾き、170センチ、75キロのタックルマンは試合の3日後に発表されたカナダ遠征のメンバーから漏れてしまった。

 どんなトップチームも同じだろうが、日本を代表する才能とて、常に淘汰は待ち構える。そのストレスたるや。石塚さんは自身の選考漏れを発表の前日、会社の仕事中に知った。その時の状況をこう述懐した。
<信じられなかった。悔しかった。目の前が真っ暗になった。初めてジャパンに選ばれて以来、一日のすべて、いや、1分1秒たりとも、ジャパンの誇りと自覚を忘れることなく生活してきた。友人との付き合いもなく、彼女もなく、リコーの社員として仕事にもまじめに取り組み、そして練習、練習に明け暮れた。なぜ、おれが。なぜ…。会社のトイレに駆け込み、“これから、いったいどうしたらいいのだろうか”と考えると、涙がどんどんこぼれてきた。そして、夜まで、ただボーっとしていた>

 石塚さんはその夜、ショックで眠ることができなかった。翌日の新聞発表までには気持ちを切り替えなければいけない。周りからの同情ほど恥ずかしいことはない。<自分のみじめな姿を想像するとまた涙が出てきた>とも書いている。

<ヨシっ、みんなに元気づけられたら“ハイッ、またイチからやり直してがんばります”と言えるように気持ちを立て直しておこうと思った。そして、また、ジャパン復帰の希望を持って力いっぱい練習しようという気持ちになった。しかし、内心はどこかで暗さがあったのだが>

 こういう時は原点回帰である。石塚さんは仕事の合間、東伏見の早大ラグビー部の後輩たちの練習をのぞきにいっている。また、それまでオフには自主トレに励んでいた小田原の大雄山という山の寺に行って、ひとりで長い階段を上り下りし、ひとりっきりでもの思いにふけった。修行僧のごときか。そして海に出て、ただ大海原をみつめもした。

<自分の心の狭さを感じた。ひとりで考え、ひとりで前進していくことしか考えてはいけないのだと思った>

 気負いが裏目に出る。リコーでの練習も<ふざけるな>という気持ちで走っていたと述懐している。おれが、おれが…。<おれを落としやがって>との反発心がつのる。5月16日の慶応大学との練習試合でのことだ。石塚さんはパスせずに強引に突っ込んでいって、右足のすねを強打してしまった。激痛が走る。<足がバラバラになったようだ。ふくらはぎが太ももぐらいにはれ上がった>と書いた。右足すねの複雑骨折だった。

 それから45年。ことしの師走5日の早明戦。秩父宮ラグビー場で、その試合にセンターで出場していた水谷眞さんに話をうかがった。いつもネクタイ姿で忙しそうに駆け回っている。ラグビー界のレジェンド、人のいい関東ラグビー協会元理事長。「石塚さんの骨折は?」と聞けば、76歳は「あぁ、覚えているよ」と深いため息をついた。

<(当時30歳の)おれも、まだ試合に出ていたんだ。骨折した瞬間、石塚は、“おれの人生終わった”ぐらいの感じで叫んでさ。あのやろう、なんでそこまで考えるのか、ってびっくりしたものだ>

 悪夢だった。5月18日。石塚さんは24歳の誕生日を病院のベッドの上で過ごした。手術を受け、約1か月後、リハビリのトレーニングが始まった。懸垂、腕立て伏せ、腹筋運動。松葉杖を使わずに、左足だけで跳びながら病院での階段上りをつづけた。焦りがあったからだろう、伊豆下田でひとりリハビリトレに取り組み、無理矢理に砂浜を走り、階段を上ったら、再び、骨折してしまった。

 再手術は、腰の骨を数センチ削って折れた右足に埋めるものだった。全身麻酔だったが、石塚さんは痛くて涙を流したそうだ。それから10カ月間、ギブスを付ける羽目になった。今度は慎重にリハビリに取り組んだ。

 過酷な月日が流れた。
 1978(昭和53)年の夏、練習試合の大怪我から、2年ほどが過ぎた。石塚さんはこう、振り返っている。
<長い年月だった。その間、私は一度も日本代表の試合を見なかった。そしてリコーの練習にも参加せず、ひたすら個人で復活を目指したのである>



 その夏、長野・菅平高原での日本代表候補合宿に声がかかった。26歳のタックルマンはコーチとして参加することになった。石塚さんはラグビーノートにこう、書いている。
<うれしい声がかかった。もちろん、この合宿で自分はジャパン復帰など考えてもいなかった。ただ、怪我から2年間、ラグビーから離れていた自分の元気な姿を何らかのかたちで見てもらいたかった。この2年間、いろいろな苦しい思いをし、ひとりで練習してきたことが決してまちがっていなかった事を自分自身で納得したかった>

 合宿ではA、B、Cの3チームが編成され、激しい選考試合が繰り返された。4日目、チャンスがやってきた。タックルマンはBチームのフランカーとして出場した。思い切りタックルができるか、その1点にかけた。無事、試合が終わった。
<何とも言えない気持ちだった。試合から遠ざかっていた分、カンが鈍っていたかもしれないが、体力的には十分にプレーすることができ、2年間、つもりつもっていたものをはきだせた。チャンスにすべてを出し尽くした自分に悔いはない。ただ、それだけだ>

 合宿最終日の朝。ホテルのラウンジでひとり、コーヒーを飲んでいると、日本代表監督の日比野弘さん(2021年11月14日に86歳で死去)がテーブルに寄ってきた。いつものおだやかな顔で何も言わず、コーヒーカップの横に白いレシートを置いて去っていった。
 何だろう。日比野さんのコーヒー代を払っておけという意味か。まさか、そんなことは。レシートをめくると、裏にはこう、黒字で走り書きされていた。涙がこぼれ落ちた。
<日本代表復帰、おめでとう>

 タックルマンの石塚さんは日本代表のフランカーとして、1978年9月23日のフランス代表戦(国立競技場・●16-55)に出場した。実に2年と3カ月ぶりの代表復帰だった。
 その後、石塚さんは日本代表の不動の7番として活躍した。リコーの練習にも戻った。再び、水谷さんの回想だ。言葉に実感がこもる。
「あいつのがんばる気持ちはさすがだった。ひどい怪我をしたのに、不死鳥のごとく、またグラウンドに戻ってきた。おれたちもあいつのタックルで奮い立ったものだ。プレーにも、言葉にも、魂がこもっていたものさ」

 1979(昭和54)年5月13日・花園ラグビー場 日本代表対イングランド代表(●19-21)
 1979(昭和54)年5月20日・国立競技場 日本代表対イングランド代表(●18-38)
 1979(昭和54)年9月24日・国立競技場 日本代表対ケンブリッジ大学(●19-28)
 1980(昭和55)年3月30日・国立競技場 日本代表対NZ大学選抜(△25-25)

 石塚さんは1980年の秋、日本代表のオランダ・フランス遠征に参加した。
 日本代表は第1戦のオランダ代表戦(10月4日・ヒルフェルムス)では13-15で惜敗した。ほほえましいエピソードが残る。ノーサイドの笛が鳴った時、森重隆キャプテン(現・日本ラグビー協会会長)だけがガッツポーズをした。最後のチャンスだったフリーキックの時、味方にタッチの外に蹴り出すよう指示していた。スコアを勘違いしていたのだ。

 その試合から41年が経った。師走某日の秩父宮ラグビー場そばのホテルのロビー。そのオランダ戦が日本代表デビュー戦だった伊藤隆さんが笑いをこらえながら思い出す。
「みんな、ずっこけてさ。あれは、重隆さんの判断ミスだった。得点板が会場になくて、スコアを勘違いしていたんだ。でも、だれも重隆さんを恨む人はいないよ。いい人だもの。試合直後、“重隆さん、勘弁してくださいよ”と言ったら、重隆さんは、“えっ、負けたの? 勝ってたんじゃないの”って」

 遠征最終戦のフランス代表戦。10月19日のトゥールーズだった。石塚さんが7番、伊藤さんは6番の桜のジャージを着た。フランス代表はその年の五カ国対抗を制覇した強豪チームで、右プロップがあのロベール・パパランボルドだった。こんな逸話がある。ロック林敏之さんが猛タックルを浴びせ、パパランボルドが泣いたというのだ。

 日本代表は健闘した。最後は3-23で敗れたものの、ラスト10分頃までは3-11と対抗していた。伊藤さんの述懐。
「たしか、そこで、俺たちはいい位置からのペナルティーゴールのチャンスを得たんだ。入れば、スコアが6-11となっていた。でも、外しちゃって…。負けたけど、いい勝負はした。石塚さんと6番、7番のペアを組んで、必死にタックルだった。タックル、タックル、ひたすらタックルだったね。不思議と試合中、会話はないんだよ。もう、“あ・うん”の呼吸。ラック、モール、どちらかが入ったら、もうひとりは入らず、次の展開にすぐ走った」
 伊藤さんのトイメンは、かの金髪フランカーのジャン・ピエール・リーブだった。リーブは誰もが知る名言を残している。

 『ラグビーは少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる』

 そうなのだ。石塚さんはラグビー少年の魂をいつまでも持っていたのだった。

職場(リコー)での石塚さん。(BBM)

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