ブレザー姿の一団がいる。埼玉・熊谷ラグビー場の関係者付近の自動販売機の前で、中大の松田雄監督が選手に訓示していた。離れたところには、遠藤哲ヘッドコーチが立っていた。
加盟する関東大学リーグ戦1部を、8チーム中7位で終えていた。そして12月11日、2部2位の東洋大との入替戦を落とす。21-26。後半ロスタイムに敵陣ゴール前に侵入してラックを連取も、手痛いミスを犯して勝ち越せなかった。
最前列の茂原隆由主将はこうだ。
「ひとつひとつの局面で、自分たちのミスが…。1年間、自分が甘かったと思っています」
一時は快調に映った。10月10日のリーグ戦2試合目では、前年度2位の流経大を42-22で下した。攻撃での鋭い仕掛け。シャローディフェンス。茨城県内の敵地で、現体制の目指す型を表現できた。
落とし穴があった。主務の鈴田幸暉は、八王子市内の寮での雰囲気にかすかな違和感を覚える。流経大戦を終えると、部員が練習後の風呂場で「これで〇〇大、△△大に勝って、最後は…」と、まだおこなっていない試合の星勘定をし始めたからだ。
中大は、今季のリーグ戦1部で留学生のいない4チームのうちのひとつだ。さらに選手の数は60名台と、100名超のクラブも珍しくないなかでは小規模の部類に入る。さらに一昨季も入替戦に出ている。大学選手権に進む上位3傑入りへは、本来なら一戦必勝の姿勢が求められた。
流経大戦の6日後には、会場非公開のもと法大に13-40で敗れた。遠藤は反省する。
「『(流経大に)勝ったのは嬉しいことだけど、(次も)戦争だぞ』と、空気をぴりっとさせてもよかったかもしれなかった。…出直します」
終盤戦はもつれた。中大は、2勝3敗で迎えたラスト2試合の結果次第で前年度の5位を上回る可能性も残していた。それでも11月21日、東京・AGFフィールドで関東学院大に12-35と屈した。後半に突き放され、「試合のなかで『(展開上)厳しい』となった時に、崩れちゃったよね」と遠藤。時を前後して、主力にけが人を多く出した。
28日の最終戦は13-50と屈した。埼玉・セナリオハウスフィールド三郷では、大東大にミスボールを拾われそのまま失点するシーンを多く作った。
「そこ(攻守交替時の反応)を俺らは得意としているはずなのに…と。ミーティングでもそう話しました」
こう語る遠藤は早大出身で、前20歳以下日本代表ヘッドコーチという経歴を持つ。中大とサインしたのは、2019年度のことだ。
現役時代にリコーでチームメイトだった松田から、プロの指導者として競技力向上に関するほぼ全般を任された。運動量と鋭さで巨木を倒すべく、選手には激しく動き回るなかでの丁寧さを求めた。
指導内容を指摘されれば改善する思いはある。ただし、陰で不平を漏らす選手がいたらそれにはおもねらない。態度は一貫していた。
就任3シーズン目の今季は、潮目の変化を感じただろうか。
コカ・コーラを退社したばかりの山北純嗣が招かれたのは、この夏のことだった。リーグ戦2位と躍進した2013年度の主将でもある山北は、中大の先輩でもある松田にモチベーターとして期待された。遠藤は変わらず、グラウンドで笛を吹いた。遠藤と同時期に入閣した筑波大出身の村上大記コーチとともに、小よく大を制するようなゲームプランを練った。
入替戦の前日も、東京都八王子市内の本拠地でスピードをつけて実戦練習をおこなう。体育の授業で使っていたグラウンドの半面を借り、「死闘」への最終準備を施す。
締めにはジャージィの授与式をおこなう。山北は「ここにいる奴は家族」と言った。
「(試合に)出る奴はこの家族を守るために戦う。その思いをグラウンドで全面に出すことが、勝つための近道。出ない奴も本当に勝ちたい気持ちで、グラウンドに来てください」
松田は続く。
「どっちが勝ちたいか。どっちが守るか。そういう話だ。気持ちを持って、戦ってくれ。ラインアウトを獲られた、スクラムを押された…そんなことはよくある話だ。そういう時でも、できることを探してくれ」
遠藤は「土壇場だよね。瀬戸際、正念場、いろんな言葉があると思うけど、そこで、力を発揮するためにいろんな準備をしてきたと思うんだよ。全員の力、必要ね」。別な場所ではこうも述べた。
「確実に成長はしている。明日は、本当に、真価が問われる。構図的には相手が挑んでくるんだから、それに挑み返す。口だけの『リスペクト』はいらない」
その向こう側に、今度の80分があった。
松田は、遠藤と歩んだ3年間を「厳しい言い方をすれば、結果は出なかった」と総括する。「でも、それを招いたのも俺。チャレンジできるところまで行ったのだから、マイナスになったことはない」とも続けた。
ジャージィ授与式でも、試合後の会見でも、ただただ部員に詫びた。
「選手たちのポテンシャルを100パーセント、120パーセントと出してあげられなかった。申し訳なかったと感じています。もっと個性を活かして、いいところを引き出してやれたんじゃないか…」
1924年創部。リーグ戦が1967年に始まって以来、初の2部降格となった。戦前に「中大を守る」と決意していた松田は、「いまここで『来年、頑張ろう』という話ではない」。来季以降について考えるのは、時期尚早といった構えだ。こうも語る。
「まずこの現実から目をそらさず、しっかりと受け止めたうえで、中大として進んでもらいたいなと思っています」
身長188センチ、体重130キロの茂原は、こう声を絞った。
「後輩に1部の場を残せなかった責任は、次の舞台へ背負っていく。過去には戻れないですが、一回、自分で全て引き受けて、前に進んでいきたいと思います」
3年時から副務という裏方業務を任されてきた主務の鈴田は、遠藤から「現象と本質」という考え方を教わった。
試合日のバス移動の際、予定通りに現場に着くという「現象」のみならず、試合でベストパフォーマンスを発揮して試合に勝つのが本来の目的だという「本質」を踏まえて最良のスケジュールを組むべきだと知った。就職活動の面接でもそのように話し、金融業界で内定をもらった。
結果を出せなくとも称えられる逸話はある。各々が各々の立場でチームを思ったのも確かだ。
それらが中大の「本質」だったとしても、当事者たちはまず、負けたという「現象」と向き合っていた。