ラグビーリパブリック

タックルマン石塚武生の青春日記⑬

2021.12.07

リコー時代。仕事とラグビーの両立に力を注いだ。(BBM)



リコー入社。仕事とラグビー。
真夜中のランニング。
Stay Hungry, Stay foolish.

 1975(昭和50)年は、コンピューター史において画期的な年だった。
 米国でマイクロソフト社が、ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏によって創業された。
 翌年にはアップル社が、スティーブ・ジョブズ氏とスティーブ・ウォズニアック氏によって創業されることになった。
 ちなみに、ゲイツ氏とジョブズ氏はともに1955年生まれだった。つまり、マイクロソフト社とアップル社の出現、パソコンの商業化は「時代の必然」だったわけだ。

 この年の春、タックルマンこと石塚武生さんは早大を卒業し、OA機器会社のリコーに就職した。
 石塚さんは古びたラグビーノートにこう、記している。

〈大学時代、勝負の世界の緊張感、勝つことのすばらしさを知った。負けることのくやしさを知った。そして何より、自分の持てるものをすべて出せることはすばらしいではないか。どん欲にがむしゃらにラグビーに突き進んできてしまった今、このまま引き下がれない。社会人でもラグビーで勝負することにした〉

 当時の社会人ラグビーは、リコーと近鉄などによる”戦国時代”の様相を呈していた。だが、リコーも近鉄も世代交代が進み、相対的に弱体化していった。代わって、台頭してきたのが、新日鉄釜石である。

 また高度成長期が終焉を迎え、景気も悪化していた。〈希望と少しばかりの不安を持って入社した〉と石塚さんはノートに心中を吐露している。

〈あいにく会社の景気が悪くなったため、1カ月間の自宅待機という通知が送られてきた。別になんのショックもなかった。学生と社会人との気持ちの切り替えの期間として好都合だったかもしれない。リコーの関連会社で1カ月間、アルバイトすることになり、トラックの助手として荷物の積み下ろしなどをやった。もちろん、リコーの夜の練習には参加した〉

 5月1日、石塚さんは晴れてリコーに入社した。数カ月間の研修を経て、電送機器の営業部門に配属された。
 最初の仕事がファックス機の販売員(セールスマン)だった。当時の電送高速ファクシミリが一台、〈260万円〉もした。これを企業に対し、50台、100台とまとめて販売することになる。
 ノルマが決まっていたから、かなりのプレッシャー業務だっただろう。

 当時はアマチュアリズム全盛である。社会人ラガーは他の社員同様、仕事に励み、夜、練習に取り組んでいた。
 早大で石塚さんの3学年の後輩となり、その後、リコーに就職することになる伊藤隆さんは、こう説明する。

「ラグビー部員の特別扱いはなかったよね。月曜日以外は毎日練習。午前8時45分から午後5時半まで働いて、午後7時から、二子玉川のグラウンドで練習が始まるわけさ。練習が終わって、風呂に入って、メシ食うと、夜10時半とかになっていた」

 伊藤さんは現在、リコーを定年退社し、関東ラグビー協会の理事を務めている。
 66歳。競技委員長などでもあり、関東協会主催の試合の日はキックオフ2時間以上も前に会場に入る。12月4日の土曜日。秩父宮ラグビー場そばのホテルのラウンジで話を聞いた。

「石塚さんのことで」とお願いすれば、すぐに時間をつくってくれた。筆者はかつてオール早稲田で一緒にプレーをさせていただいたこともある。根がやさしい人なのだ。

 伊藤さんは現役時代、左フランカーで、右フランカーの石塚さんと6、7番のコンビを組んでいた。日本代表でも一緒にプレーした。伊藤さんは、ラグビーの5つのコアバリュー(インテグリティ=品位、パッション=情熱、ソリダリティ=結束、ディシプリン=規律、リスペクト=尊重)を大事にしている。一番は? 
「おれはインテグリティかな。石塚さんはパッションの人だった」

 リコーの練習はハードだった。そりゃ、石塚さんがキャプテンだもの。ワセダと一緒の緊張感だっただろう。伊藤さんが早大1年の時、キャプテンが石塚さんだった。
 リコーに入社した時も、主将は石塚さんだった。

「練習のきつさはもちろん、終わりが見えないんだから。公式戦直前の日以外は、くる日もくる日も猛練習だった。石塚さんは最初、あこがれの存在だったけれど、両方が日本代表になってくると、先輩、後輩ではなく、ライバル関係のようになっていった。おれと石塚さんは全体練習後、居残り練習をするわけさ。あの人が、おれより先にグラウンドをあがったことはなかった。負けず嫌いでストイック。自分にも厳しい人だった」

 石塚さんは銀座の営業本部から、青山本社の人事部に移った。人事部は会社で座ることが多くなったからだろう、二子玉川のラグビー部寮から青山本社までランニングで通うことになったそうだ。



 石塚さんはラグビーノートに、こう、書き綴っている。
〈給与関係の仕事で月1回、必ず帰りが夜中になることがあった。少しばかり練習にも影響が出そうであった。しかし、自分の性格からいって、いくら仕事だからといってからだを休ませるわけにはいかなかった。仕事の様子をみて、何とか少しの時間でも〝今日は練習した〟という気持ちにしておきたかった。

 ある日、仕事で夜中になったことがあった。午前2時頃までかかり、さてどうしようかと考えてみた。このまま帰って寝ても、明日も出勤だ。そこでとりあえず、タクシーで二子玉川駅まで帰る。二子玉川駅から寮まで約3キロくらいである。時間は午前2時30分頃。自分はスーツ姿のまま、革靴のまま走り出した。道路には人ひとりもいない。人が見たら、いったいこんな時間に何事かと思われるだろう。

 でも、自分は気持ちよく走っている。汗が噴き出してくる。ここまでやらなくても、と思うこともある。でも、まさかと思われることをやっていかなければ人には勝てない。人に勝つためには、いつも真剣にやっているんだという自信しかないと思う〉

 石塚さんはまた、ふだんの仕事のことにも触れている。苦悩の日々だったのだろう。

〈どうしても社会人として仕事とラグビーの生活に慣れるのが大変だった。中途半端でラグビーを終わらせたくないので、どうしても練習に熱がこもる。朝、目を覚ますと、気慣れないスーツにネクタイをしめ、出勤カバンを持って営業にでる。

 まったく知らない会社に飛び込む。受付で、慣れない口調で訪問の理由を言って、面接を申し出る。アポイントなどとってあるわけがないので、時には門前払いをくらう。こうして、午後5時30分を迎え、練習グラウンドに向かう。

 リコーのラグビー部に入って、早稲田ラグビー部でばりばりやってきた自分にとって、ものすごいギャップを感じることがある。例えば、練習の開始時間の不規則な点、練習の中身、意気込み…。いろいろな面で不満を感じた。〉

 石塚さんにはどうしても孤高のイメージがつきまとう。ストイックだ。こんなことも書いている。

〈朝は8時30分から仕事が始まる。営業の時は午前9時頃、お客さんのところに出かけていた。しかし、すんなり目的地に向かうことはない。とくいのモーニングサービスである。いろいろと外回りしているうちに、どこのモーニングはボリュームがあり、どこのモーニングはおいしいかがわかってきた。

 入社してから、会社の人とどこかに飲みにいったりする機会はまったくと言っていいほどなかった。当然である。月曜以外は練習なのである。唯一オフの月曜日。のんびりする時間であり、1週間の気分転換をする。大切な時間。ひとりでサウナに行って汗を流し、ひとりでちょっと豪華なレストランで食事をして、寮に帰って、せんたくやそうじをするのである。ちょっぴりさびしい気がする。つまらない気もする。でも、すべて、翌日からの練習のためだと思ってガマンする。

 時々、誰かにさそってくれないかと思うが、誘ってくれる人などいない。人にそんなスキを与えないでやってきてしまったのである。〉

 再び、伊藤さん。ラグビーをラブする先輩は、スティーブ・ジョブズ氏の遺した名言、「Stay Hungry, Stay foolish」という言葉も大事にしている。「ハングリーであれ、愚か者であれ」とよく訳される。でも、違うだろう。「ハングリーであれ、一途であれ」の方がハマる。「迷わず、己の信じた道を進め」といった意味だ。
 石塚さんから学んだことは?
「練習に対する姿勢そのものだよ。一途さといえばいいのか。石塚さんは、そのジョブズの言葉を体現していたと思う」

 余談ながら。
 実は石塚さんはやさしい。先日、早大の1年後輩となる「アニマル」こと、伝説の名ウイング、藤原優さんからこんなエピソードを聞いた。
 藤原さんが早大の5年目、秋から、英国の「ハリクインズ」でラグビー留学していたころのことだ。
 藤原さんは社会人の石塚さんから月一で手紙が届いていた。リコー入社を勧められていた。健康を気遣う手紙と一緒に必ず、日本円の1万円札も入っていたそうだ。

 藤原さんの述懐。
「オレは商社に行きたくて、英語をしゃべれるようにもなりたかった。でも、石塚さんはリコーで一緒にラグビーをやろうと言ってくれていたんだ。石塚さん、薄給の中から、1万円を手紙と一緒に送ってくれていた。おれ、学生だから、金ないじゃん。オレは毎月、感激して泣いていたよ」

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