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【ラグリパWest】感謝を胸に。 田村魁世 [同志社大 共同主将/スクラムハーフ]

2021.11.18

1999年12月15日生まれ。スポーツ健康科学部に学ぶ。(撮影/前島進)



 田村魁世は感謝ができる学生である。

 その名前「かいせい」には、世の先駆けになってほしい、という父・和之と母・久美の願いが込められている。

 同志社では最終の4年生。スクラムハーフを任され、共同主将に就いた。ロックの南光希と2人で、両親の希望通りチームの先頭に立つ。その底には常に謝意がある。

 18歳までは神奈川で過ごした。大学から京都に来る。文武両道を考えた。桐蔭学園からはフランカーの杉野優太が一緒だった。

「最初は関西弁が怖かった。怒っているのかな、と思いました。杉野がいてくれたからよかった。ひとりだったら、慣れない環境でどうなっていたか分かりません」

 1年時は肩を痛め、手術をした。戦力にはならない。ストレスにつぶされず、京田辺で研鑽を続けられたのは同期の存在が大きい。

「2年生になってTIDキャンプに呼んでもらいました。山神さんのおかげです。自分なりにアピールはできました」

 世代の日本代表候補に入る。山神孝志はその正確なパスワークや俊敏さを買っていた。山神は田村の入学前の同志社監督。この時期はフル代表の強化副委員長をつとめ、ユースの統括だった。

 山神の高評価もあり、高校、U20 、ジュニア・ジャパンと順調に世代の日本代表の階段を上がった。ジュニア・ジャパンはフル代表の下に位置している。

 2年秋、同志社ではスタンドオフを任された。170センチ、79キロとそう大きくはなかったが、古城隼人、南野仁ら司令塔候補がケガをした。高3時にこのポジションは経験済みだった。早稲田に進んだひとつ下の小西泰聖とハーフ団を組む。
 関西リーグ再開後はスクラムハーフに戻った。この2019年はワールドカップで約1か月の中断があった。

「自分ではスクラムハーフの方がしっくりきます。経験が長いですから。でも、楽しいのはスタンドオフです。ゲーム・メイクができるし、人も使えます」

 3年時はスクラムハーフを近鉄に進んだ人羅奎太郎に任せ、再びスタンドオフ。関西2位になったが、部内でコロナのクラスターが発生。57回目の大学選手権を辞退する。

「ラグビーができるありがたみを感じました。ラグビーができることは普通じゃない。出られなかった先輩たちの分を背負って、という格好いい感じではないですけど、そういう思いで最後までやるつもりです」



 スクラムハーフに戻った最後の関西リーグ、2戦目の近大戦でつまずく。10−24。11月6日の京産大戦も19−22で敗北。優勝戦線に残るかどうかの大一番だった。
 3勝2敗、勝ち点は16となり、首位の京産大とは7差の4位に沈む。田村はこの試合、肩を痛め、前半21分に退場している。

 ヘッドコーチの伊藤紀晶は振り返る。
「田村にはチームに対して常に声をかけ、その言葉を浸透させる力があります。彼の退場でその部分がなくなった。チームの損失としては大きかったと思います」

 田村の代わりに出たのは1級下の新和田(しんわだ)錬である。
「レンは速さなどそのスペックは高い。僕はコミュニケーション能力とリーダーシップがあるから出ているみたいなものです。レンがいたから、あそこまで競ったと思います」
 下級生を評価でき、謝辞が出る。

 11月20日、同志社は最下位8位の関西学院との対戦が予定されている。京産大戦後に伊藤は話している。
「ケガの内容がどうあれ、田村は関学戦は休ませるつもりです」

 関西の大学選手権出場枠は3から4に増えた。同志社の出場は決定的。最終戦の天理との勝敗の影響はおそらく受けない。
「天理との試合は出る気でいます。そこに合わせて調整するつもりです。自分にとってはラストシーズンであり、関西リーグは最終戦。肩が外れてもやりたい」
 熱がほとばしる。長い教育期間を経て、社会に巣立つ。社会人でも競技は続けるが、納得した形で大学ラグビーを終えたい。

 楕円球を持ったのは小1から。父は経験者ではないが、ラグビーが好きだった。鎌倉から中学は横浜にラグビースクールを移る。地元の桐蔭学園に進学。1年から公式戦出場。3年間、花園の芝を踏む。3年時の97回全国大会は4強戦で大阪桐蔭に7−12で敗れた。

 母には3年間、毎朝、鎌倉の自宅から藤沢まで車で送ってもらった。朝練習のためである。小田急、東急を乗り継ぎ登校していた。
「すごいことです。母には感謝してもしきれません」
 弁当を作るため、母は4時起きだった。帰りも藤沢まで迎えに来てくれる。会社員の父は神戸に単身赴任の時期。ワンオペの母の愛を感じながら、紺グレの一員になる。

「大学の4年間、めちゃめちゃ充実していました。同期はいいメンバーがそろっています。ふうと、おとや、稲吉…。恵まれました。同志社に来てよかったと思います」
 フルバックの山口楓斗、ナンバーエイトの木原音弥、ウイングの稲吉渓太の名が挙がる。

 その仲間たちと、周囲への謝意をはっきりした形に変えたい。22歳の集大成である。