「コツコツ」「信頼」「経験は宝」
初の海外遠征、NZの空は青かった。
責任が人をつくる。
1974(昭和49)年春、4年生となった石塚武生さんは早稲田大学ラグビー部の新主将に任命された。また、21歳のタックルマンは日本代表のニュージーランド遠征メンバーに選ばれた。初めての桜のエンブレムだった。
石塚さんは古びたラグビーノートにこう、書いている。
〈自分の人生にとって、2つの大きなチャンスが訪れた。1つは、伝統ある早大ラグビー部のキャプテンとして任命されたこと。もう1つは、全日本チームのNZ遠征に入ったことである〉
ノートの欄外の余白にはこう、黒字で走り書きしてある。
〈コツコツ〉
〈信頼〉
早大ラグビー部の主将は、前年度の卒業生が選び、監督の承認を持って指名することになっていた。前年度主将で、現在の早大ラグビー部OB会長の神山郁雄さんは、「石塚以外にはいなかったよ」と当時を思い出す。
「それまでの実績、ラグビーに対する愛情。ラグビーに関するものをすべて持っているわけだから。石塚にとっても、本望だっただろう。自分で先陣を切る、周りをぐいぐい引っ張っていくタイプだったね」
かたや石塚さんは、こう書いた。薄くなった黒い文字から闘気が漂ってくる。
〈何という名誉なことだろう。伝統ある、常に日本のラグビーの先頭にいるラグビー部のキャプテンを、自分が責任を持って果たしていけるだろうか? そういう不安もあったが、それ以上に大きな希望と、何か心の底から闘志が湧いてくる気持ちだった〉
新チームのキャプテンとして、早大ラグビー部の春の練習をリードしたが、石塚さんは4月下旬から1カ月半にわたる日本代表のニュージーランド遠征に参加した。
その年の早大からは、フランカーの石塚さんと、3年生のウイング藤原優さん、1年留年したフルバック植山信幸さんの3人が入っていた。学生は、この早大トリオだけだった。
石塚さんにとっては、初めての海外だった。すべての風景が光り輝いていたようだ。経験は宝だ。胸のときめきが行間にあふれている。
〈ニュージーランドの空は青かった。ほんとうに透き通るような空気の中、陽射しがキラキラ光って、木々の緑をいっそう鮮やかに見せている。それが、生まれて初めての外国の地での印象である〉
〈ニュージーランドでの約40日間の生活と11試合の遠征経験は大切な思い出となった。ニュージーランドの外観のすばらしさ、そして何よりいつまでも思い出に残るのは、民泊先の家族の親切さだ。2、3泊すると、情が移ってしまうほどの心のやさしい人たちだった。もちろん、言葉はあまり通じなかったが…〉
どんな遠征だったのだろう。興味がつのる。そこで、この遠征に一緒に行った藤原さんの携帯に電話をかけた。
藤原さんといえば、パワフルな走りで「アニマル」と謳われた日本ラグビー界のレジェンド。おそれ多いのだが、思い切って携帯のボタンを押した。
出ない。留守電だった。「また、こちらから、電話をかけます」。ぎこちないメッセージを残した。5分後、なんと、藤原さんから電話がかかってきた。
「おっ、ご無沙汰。懐かしいよな。マツセ、元気か?」。恐縮する。あったかい声だった。
藤原さんは、早大では1年生の時からレギュラーで活躍した。2年生時の日本代表英仏遠征のウェールズ戦では、戦後最年少の20歳2カ月(当時)で初キャップを獲得した。その後、22テストマッチに出場し、12トライを挙げた。時代のヒーローだった。
その藤原さんも、68歳となった。筆者も還暦を過ぎたことを言えば、「年をとったな、お互い」とわらった。藤原さんは丸紅を退職し、いまは営業のコンサルティング会社を営んでいる。「細々と活動しているよ」と、またわらった。近況を聞くと。
「オレは、きれいな奥さんと仲良く、元気でやっているよ。あっ、犬がいる。モモコって言うんだ。家族円満、仲がいいのがイチバンだろう」
藤原さんは現役時代、石塚さんとよく一緒に行動した。大学の練習オフの日は必ず、グラウンドを共に走ったそうだ。
飲みに行く時でも、練習をしてから一緒に出かけた。石塚さんのことを聞けば、「”ラグビーの虫”だよね」と言った。
「みんなが”ラグビーの虫”というコトバを使うけど、石塚さんのような人物を言うんだろうね。ラグビーをすごく大切にしていた。ラグビーが大好きだったんだろう。おれの周りで、石塚さんほど、ラグビーに情熱をそそいだ人はいないと思うよ。それは、誰もが認めるんじゃないか」
話題は、石塚さんの初めての海外遠征となったニュージーランド遠征のことだ。オークランドに入った。夕方、宿舎に着くと、藤原さんは、石塚さんから声をかけられた。
「マサル、いくぞ」
時差ボケ解消のランニングの誘いだった。この遠征後、日本代表の海外遠征でひんぱんに共に行動することになる。渡航先に着くと必ず、一緒にジョギングしたそうだ。
「マサル、いくぞ」と。時間にしたら1時間程度。ふたり、その国の風をほおに受けながら、火照る心を静めたのだった。
どんな遠征でしたか、と聞けば、藤原さんは正直だった。「半世紀近く前のことだろう。ちょっとよく覚えていないな」と漏らした。
「最初は周りに遠慮していたよね。すべての面で。ああ、練習では石塚さんと一緒にボール拾いをしたなあ。早大のキャプテン自ら、用具の準備をしたり、片付けたり、おれを手伝ってくれた。ふたりともプレーは調子よかったよ」
その時の日本代表は、明大OBの斎藤寮さん(2015年没・享年89)が監督を務め、メンバーには主将のCTB横井章さんほか、プロップ原進さん(阿修羅・原=2015年没・享年68)、ロック寺井敏雄、CTB伊藤忠幸らそうそうたる選手が並んでいた。
石塚さんとフランカーでコンビを組んだのが、「タックルの鬼」といわれた早大先輩の井沢義明さん(2014年没・享年67)だった。新旧の交代期といっていい。
日本代表はニュージーランドを転戦しながら11試合を戦い、5勝5敗1分けの好成績を残した。
とくに遠征最終戦。あの1968年の”大西ジャパン”でも勝てなかったニュージーランド学生選抜(NZU)に対し、藤原さんの逆転トライで24-21とし、初勝利を挙げた。殊勲の勝利だった。
石塚さんは、ラグビーノートにこう、書き残している。
〈最後のNZ学生選抜に勝ったことが一番の思い出となった。個人的には、11試合中9試合に出場できたことが自信となり、卒業後の就職へのおおきなポイントとなった〉
藤原さんによると、石塚さんはその時、就職先を伊勢丹からラグビーの強豪、リコーに方針転換したそうだ。
自分自身を頼りに道をひらき、桜のジャージのためにからだを張る。まっすぐな生き方を貫いた石塚さんのラグビー人生がおおきく動いていく。
余談をいえば、この年、プロ野球の長嶋茂雄が現役を引退した。夜の後楽園球場。ミスターが一筋のカクテル光線に照らされたマウンド付近で声を張り上げた。「わが巨人軍は永久に不滅です」。
街のあちこちからは、森進一の『襟裳岬』のメロディーが流れていた。
石塚さんが1974年に書いた古い色紙が残っている。黒マジックでこう、書かれている。
『昭和49年度 我 青春 完全燃焼 Takeo Ishizuka』
タックルマン石塚武生の青春日記はこちらから読めます。