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【訃報】日比野弘 氏/元ジャパン戦士は、監督で解説者で、歴史家。楕円球の伝道師、逝く。

2021.11.15

2018年に行われたインタビュー時の近影(撮影:松本かおり)

 元日本代表監督の日比野弘氏(日本ラグビー協会名誉顧問、元名誉会長)が、2021年11月14日に逝去した。11月15日に日本ラグビー協会から訃報があった。享年86。葬儀は、故人の遺志により家族葬にて執り行われる。

 日比野弘(ひびの・ひろし)氏は1934年(昭和9年)11月20日生まれ。東京都立大泉高校で本格的にラグビーを始め、早大に進学。センスある走りと快足で1年時からレギュラーを掴む。早大4年時に日本代表に選出されるなどWTBとして活躍した(キャップ3)。現役時代の身長、体重は169 センチ、65キロ。卒業後は東横百貨店、家業を経て、早大教授。

 早大ラグビー部監督は4期(8季)務め、日本選手権優勝1回、大学選手権優勝3回。日本代表監督としてはカナダ、ニュージーランド、ウエールズに遠征。第5回アジア大会ではチームを優勝に導いた。早大では名誉教授も務めた。

 母校・早稲田を三度、大学日本一に導き、ジャパンの指揮官としても輝いた。1983年の日本代表ウエールズ遠征では、テストマッチで24-29と、当時欧州最強だったウエールズに挑んで好勝負をみせた。指導者として腕を振るうだけではなく、テレビなどの解説では、分かりやすく穏やかな語り口がラグビーファンの心を掴んだ。20年もの時間を費やし『日本ラグビー全史』(ベースボール・マガジン社刊)を編み上げた歴史家の一面もある。

 生涯をラグビーへの愛情で貫き、その素晴らしさをさまざまな立場から伝えた日比野氏。

 楕円球との出会いは中学生時代にあったという。

「体育の先生がみんな元ラグビー部だった。私は当時野球部のキャプテンだったが、授業でもラグビーをやったりして『面白いな』と思っていた。それで中学2年に早明戦を観たんだ。昭和24年の早明戦(明治21-20早稲田)。(略)大泉高校ではすんなりラグビー部に入ったね」

 大学受験は早稲田に絞って合格。’54年(昭和29年)に教育学部に入学し、ラグビー部では早慶戦で3トライを奪うなど、1年時から快足 WTBとしてレギュラーになった。(略)

「(略)当時は春は試合が何もなくて、秋は対抗戦、11月3日に京大、1月3日が同志社、それから関西学院。全勝すると九州へ行って、オール九州と戦う。それも勝ってシーズン無敗にならないと『全国制覇』として認められなかった時代だね」

 大学時代は4年時に日本代表入りを果たすが、選手としては4年間『荒ぶる』を歌うことはできなかった。

(『早稲田ラグビー100年』ベースボール・マガジン社刊より抜粋)

 14歳から始まった楕円球の旅を、静かに、終えられた。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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