週末はラグビーに忙しい。
といっても選手ではない。大内亮助はスクールや教室の指導員(コーチ)、そして個人トレーナーをしている。
「大変やけど、おもしろいですよ」
目は細く、一筆で書ける。常に笑っているイメージ。それは丸刈りのヘアースタイルとともに10代から変わらない。
京産大やワールドではフォワードのうしろ5人、バックファイブの選手だった。183センチ、96キロの体は筋骨隆々。ギリシャ彫刻の像から「きんにくん」と呼ばれた。
プレーを完全にやめたのは不惑になった4年前。今は高校生までの育成に携わる。
「この4月から副業がOKになりました」
働くのはワールドが分社化したadabat(アダバット)。ゴルフウエアーを扱う。仕事ではブランドの方向性などを考える。
「お世話になった会社。転職は考えていません。ラグビーの方はフリーランス。二本柱でやっていけたらいいな、と考えています」
妻と3人の娘がいる。無茶はできない。
この7月、先輩から高校生になる息子の個人トレーナーをたのまれた。ウエイトトレーニングなどを教える。先輩は現役時代、同じフォワードとして名の通った選手だった。そのお眼鏡にかなう。技術と人望の高さが垣間見える。資格はトレーナーとしてアメリカのNSCA−CPTを持ち、日本ラグビー協会が定めるB級コーチでもある。
トレーニングには操体法を採り入れる。
「ざっくり言えば、東洋医学的な運動療法。呼吸やストレッチを入れたような感じで、ヨガにも似ていますね」
元々の目的は腰痛などの改善。骨盤を調整しながら、体のゆがみやねじれを直す。その資格も持ち、ラグビーをひも付ける。
「すべては腰なんですよね。グラウンドでは200キロを挙げる力はいらない。自分の体重、自重をどう使いこなせるか。身のこなしや体重移動が重要だと思っています」
先輩の息子がスクラムを組んで、腰が痛い、と言えば、答える。
「背中を伸ばす。丸くなっている」
ベンチプレスから腕立て伏せにすぐに移行させる。重量と自重の連動をはかる。
その方法論を導き出したキャリアの本格的な始まりは京産大。スクラムのみで3時間の猛練習の中、ラグビーの面白さを知る。
「自分が突っ込んで行っても、オーバーしてくれる。タッチフットは大畑さんや山岡さんらがいて、ボールがポンポン回りました」
高校は高田。奈良の無名の県立校。オール奈良に選ばれたが、軸は自分だけ。縦に出たら終わり。大学は後ろが続いてくれる。そして、2つ上には大畑大介や山岡宏哉がいた。ウイングの大畑は神戸製鋼に進み、日本代表キャップ58を得る。坂田好弘に続き、アジア人2人目のラグビー殿堂入りを果たした。山岡は俊敏なスタンドオフだった。
大内は1年から公式戦に出場する。関西リーグは2、1、1、3位。大畑を主将に抱いた2年時のチームはもっとも日本一に近かった。34回目の大学選手権で4強敗退。優勝する関東学院に38−46と8点差だった。
社会人はいくつかの誘いがある中、ワールドを選ぶ。
「僕はあまのじゃくの部分があるのか、神戸製鋼を倒せるところに行きたかったのです」
マリンブルーのジャージーは大内が4年時の1999年度、52回目の社会人大会(リーグワンの前身)で準優勝。7連覇実績のある神戸製鋼に27−36。頂点が迫っていた。
2003年から始まったトップリーグでは4季を過ごす。そして、下部落ち。2009年の3月、実質的な廃部が決まる。
「ショックでした。続けたい気持ちはあったけど、実力が伴いませんでした」
32になる年。受け皿となったクラブチームの六甲クラブで競技は続けた。
今は週末に3つの顔を持つ。宝塚ラグビースクールの指導員。企業が運営するラグビー教室で小中の2クラスを教える。そして個人トレーナー。土日の午前は宝塚。午後は土曜が堺、日曜はトレーナーである。
「今のトレンドはラインの間に入ってラックを作ること。それもいいけれど、ボールを持つ手がゆるゆるなら、はたかれたり、取られたりします。しっかり当たることも大事です」
否定はしない。アクセスはいくつもあることを知っている。自分がその子やチームに最良と思うやり方を落とし込む。トップレベルのラグビーを大学と社会人で正選手として向き合ってきた経験は大きい。
「コーチってバランスが難しい。楽しさと勝つことの両立ですね。試合は勝たないとおもしろくない。でも、小さいうちからの勝利至上主義もどうなのかなあ、と思います」
胸に秘めるのは『楽志』(らくし)。大学時代の恩師、大西健の座右の銘である。
「いい言葉だと思います」
この言葉は大西に師と仰ぐ叡南俊照から贈られた。滋賀・比叡山にある延暦寺で千日回峰などの荒行を乗り越えた高僧である。
苦しさもつらさも感じながら、志(こころざし)を楽しむ。その意味が本当にわかる年になってきた。人としての成熟から来るコーチングがそこにはある。