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タックルマン石塚武生の青春日記⑨

2021.11.09

左端下に石塚さん。1973年度大学選手権優勝、喜びの一枚。(写真/BBM)



ラグビーの自由さ、
フランカーのおもしろさ。
飛躍の早大3年生。
明大に雪辱し大学日本一奪回。

 1973(昭和48)年とは、どんな時代だったのだろう。
 スポーツでいえば、プロ野球で巨人がV9を達成した年である。子どもの多くがプロ野球を好きだった時代。
 たしか『巨人、大鵬、玉子焼き』というコトバもあった。

 筆者も、ソラでその時の巨人のラインアップを言える。
 「イチバン、センター、柴田、ニバン、セカンド、土井、サンバン、ファースト、王、そしてヨバン、サード、長嶋〜」。
 V9の時期はまた、日本の高度経済成長期とほぼ重なり、国民全体がなんだか、活力に満ちていた。この年の第1次オイルショックでその勢いは終焉を迎えることになるのだが。

 もっとも、全国区では巨人でも、関西では南海ホークスの年だった。今は無き球団の南海(現・福岡ソフトバンクホークス)が最後のパ・リーグ優勝を飾ったのだった。
 監督が選手兼任の野村克也さん。関西出身の知人はホークス子供の会・会員時代を懐かしむのだ。「あの年、パ・リーグは2シーズン制が導入されていた。わがホークスの後期の“死んだふり”作戦、いまだに痛快な思い出として残っています」

 この年の春、石塚武生さんは早大3年生となった。大学の体育会にあって、2年生と3年生は天国と地獄ほどの違いがある。上級生は、“しぼり”(理不尽な追加練習)から解放され、自由の範疇が俄然、ひろがる。
 大学の運動部員で伸びる選手は、ほぼ3年生で飛躍する。石塚さんは古びたラグビーノートにこう、書いている。

<3年生になってラグビーの自由さも、フランカーというポジションのおもしろさもわかってきた。練習すればするほど、ひとつひとつのプレーが確実に自分のものになってくる気がした。やっぱり、これも上級生になって、良い意味での余裕からであろうか>

 2年生の最後の大学選手権決勝では明大に劇的な逆転負けを喫した。悔しさを晴らすには、日々鍛錬を積んで、強くなるしかない。「こんちきしょう」が、石塚さんの口癖になった。
 3年生になると、1、2年生の指導という役割も出てくる。全体練習のあとのフランカーのポジション練習、石塚さんの指導は苛烈をきわめた。

 こうも、書いている。
<ポジション練習は、チーム練習より厳しかったかもしれない。自分を含め、伝統的にからだの小さいワセダフランカーは、とにかく走って、走って、相手に勝たなければならない。そうなのだ。練習しかないとやみくもだった>

 ポジション練習が終わると、個人のフリー練習に移る。石塚さんは自ら考えついた練習に取り組んだ。
 スクラムマシーンに上半身裸で突っ込むタックル練習。体力が限界に近付いたとき、再度、ショートダッシュ、インターバルを繰り返した。

 フランカーには、その年度のキャプテンの神山郁雄さんがいた。
 それから48年が経った11月3日の文化の日。真っ青な空の下の駒沢オリンピック公園陸上競技場のスタンドである。早大×帝京大戦前、現在の早大ラグビー部OB会会長の69歳に再度、お話をうかがった。試合前の緊張感がスタンドにも漂っていた。

 神山さんが4年生、ひとつ下の代の石塚さんはプレーヤーとしてどうでしたか?
 そう聞けば、神山さんはひと言、「一気に伸びたんじゃないの」と漏らした。
「石塚は、2年のときに試合に出て自信をつかんだのだろう。最後は負けたけど、ああいうタイプは反骨精神が強いから、“こんちきしょう”ってがんばるんだ」

 3年生は練習環境ががらりと変わる。
「“しぼり”は好きじゃなかっただろうね。彼的には、“練習をさせられても強くなるものじゃない、練習は自分でやるものだ”という気概を持っていたから」

 この1973年シーズン、日比野弘監督、神山キャプテン率いる早大は苦しみながらも、勝ち星を重ねた。当時のラグビーマガジンに掲載された石塚さんのサイズは、「身長169センチ、体重70キロ」だった。
 早明戦は秩父宮ラグビー場が改修工事のため、国立競技場で初めて行われた。観客が3万人。試合は、早大が13-9で競り勝った。

 石塚さんは心境の変化をこう、ラグビーノートに記している。
<これまでトライする華やかさにあこがれていた自分が今度は、痛い思いをしてボールを生かすことに喜びを感じるようになった。仲間のためにボールを生かして、そして自分が仲間に生かされて。そうやってほんとうの信頼が生まれるのだろう>

 そして、こう書き加えている。
<練習は厳しいけれど、ラグビーをすることが楽しくてたまらない>



 1974(昭和49)年1月6日の大学選手権決勝は前年に続き早明対決となった。国立競技場。早大がフランカーは神山、石塚コンビ、バックスには藤原優、南川洋一郎、植山信幸、金指敦彦、堀口孝、明大がプロップは笹田学、ナンバー8境政義主将、バックスには松尾雄治、森重隆、大山文雄と日本代表クラスがずらりと並んでいた。

 試合は、早大が29-6で明大に雪辱した。石塚さんは2トライをマークした。ラグビーノートではこう短く、振り返っている。<前年の悔しい思いをチーム全員で見事に晴らした>
  キャプテンだった神山さんはこうだ。
「そりゃ、うれしかったよ」

 六本木の中華料理屋の『廬山』で開かれた祝勝会には前年度主将の宿沢広朗さんらOBもはせ参じた。大学選手権覇者の銀色の優勝カップに黄金色のビールをどぼどぼつぎ、現役、OBと回し飲みしたそうだ。これぞ、祝杯。
「“やりました。カタキをとりました”って言ってね」
 優勝カップにビールをついでもよかったんですか、と聞けば、神山さんはいたずらっぽく笑った。
「さあ。当時は、よかったんだろうね。カップのビールはうまかったよ」

 余談をいえば。
 神山さんはタックルだけでなく、酒も滅法、強かった。日比野さんの言葉を借りると、「二升酒のカミヤマ」となる。早大OBの間で語り継がれている武勇伝も少なくない。
 おそるおそる、聞いてみた。高田馬場の居酒屋から早明戦に行ったって本当ですか?

「ははは。みんな、そういう風にねつ造しちゃうんだから。だって、飲み屋から早明戦に行くわけがないだろう。不謹慎な。早明戦だぞ、早明戦」

 それでは神山さん、2升酒って本当ですか? と聞けば、あっさりと言われた。
「ああ、飲んだよ」

 一番、飲んだときはどのくらいでしょうか。徳利を何本くらいやっつけましたか?
「大学2年の時かな。田舎の宇都宮に帰って、高校時代(栃木・宇都宮高校)の同期の野球部のやつとふたりで居酒屋に行ったんだ。その時、日本酒をどのくらい飲めるかやってみた。それぞれ同じ量を飲んだ。店のおばちゃんが徳利を数えていてくれて、一合徳利が全部で56本だった。さすがにその時は酔っぱらって、最後はぶっ倒れたよ」

 一合徳利が56本ということは、すなわち5升6合である。単純に割ると、ひとり、2升8合ということになる。すごい。
 これは好みの表現ではないけれど、ただ“すごい”のだ。

 話を石塚さんに戻す。
 石塚さんにお酒のエピソードは? と聞けば、神山さんは「ないよ」と言った。
 「結局、石塚は酒をあまり飲まなかったんじゃないか。頭の中、100%がラグビーだった。ラグビーを中心に人生が回っていたんだろう」
 石塚さんは、酒場で酒を飲む代わりに、グラウンドでタックル練習に明け暮れた。タックルマンはそうやって、タックルが彩る鉄火のラグビー人生を走っていくのである。


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