ラグビーリパブリック

タックルマン石塚武生の青春日記⑦

2021.10.26

早大時代。フランカーの位置に入り、ボールから目を離さない。(写真/BBM)




やる気、その気、勇気、負けん気。
ワセダのフランカーとは。
空を見ろ!

 おそれ多いことだ。早稲田大学ラグビー部OB会長に、わざわざ筆者の住むマンションそばのJR駅まで来ていただいた。新型コロナウイルス禍に伴う緊急事態宣言が解けた10月下旬のことだった。なんというか、大先輩の優しさを感じた。

 石塚武生さんの一学年上、早大時代にはフランカーでコンビを組んだ神山郁雄さんは柔らかな顔でこう、口にしてくれた。
「気にするな。駅で4つだから」と。

 大学卒業後、テレビ朝日の専務取締役などメディア業界の中枢をつとめた。ホテル1階のラウンジカフェ。尊敬する69歳は、「15年ほど前、野村克也さん(2020年没、享年84)とメシを食ったときに言われたことがあるんだ」と漏らした。

「“神山さ、勝負で一番大事なことがわかるか”って。勝つためには、4つの“気”だって言うんだよ。“やる気”、“その気”、“勇気”、そして最後は“負けん気”だって。石塚を表すとすれば、たまさか、そういうことなんだ」

 半世紀前に思いを巡らすかのごとく、神山さんは高いホテルロビーの天井に目をやった。言葉に滋味がにじむ。
「石塚はさ、“やる気”はあったでしょ。ラグビーが大好きなんだから。日本一になるためなら何でもやる“その気”もあった。“勇気”を持ってラグビーをしたでしょ。あと、“負けん気”もすごいでしょ。さっき来るとき、電車の中でふと、そんなこと思ってさ」

 1972(昭和47)年の春、ウイングからフランカーに転向して半年、19歳の石塚さんは大学2年となった。古びたラグビーノートには薄くなった黒字でこう、書いてある。
 <二年生になって、ようやくレギュラーポジションを争うチャンスがやってきた。一年生のときとはひと味違う意味でのプレッシャーを感じる>

 秋になると、大学ラグビーの公式戦が始まる。試合のある週は水曜ごろの練習の始まる際、宿澤広朗キャプテン(2006年没、享年55)が試合に向けた練習メンバーを発表した。

<練習メンバーの中に自分の名前があれば、次の試合に出られるチャンスがおおいにあるのだ。しかし、簡単に正ポジションをとれるはずがない。ライバルが上級生、そして下級生にもたくさんいる。自分のフランカーとしての技術的なものは、まだまだ人から信頼されるほどではなかった。この時期、ボクははじめてフランカーとしての大きな壁にぶちあたった。厚くて大きなカベだった。どうして良いのかわからないほど悩んだ>

 ここは、「案ずるより産むが易し」である。石塚さんはそう、気持ちを切り替えた。
<これを解決する方法は、頭の中で考えてもどうしようもない。酒で解決できるわけでもない。人に泣きごとをいってもはじまらない。とにかく、今まで以上に激しい気持ちを持って、毎日の練習に打ち込むしか方法はないのだ。自分自身でワセダのフランカーとしてのプレーを生み出していくしかないのだ>

 伝統のワセダのフランカーとは。
 特徴を示す言葉がある。誰が造ったのか知らない。『アタックル』、攻撃的なタックルを意味する、アタックとタックルの造語である。
 当時、「鉄壁ディフェンス」の要といわれたフランカーは厳しいタックルができなければ話にならなかった。

 神山さんもまた、大学1年の春、バックスからフランカーに転向していた。大学2年でレギュラーの座を獲得し、大学4年では主将を務めた。大学3年から石塚さんと公式戦でコンビを組むことになる。アカクロ(レギュラージャージ)の6番が神山さん、7番は石塚さん。「ワセダのフランカーとは?」と聞けば、神山さんはこう、説明した。

「やっぱり、タックルは大事だよね。フランカーは、走る。タックルする。倒れたら、すぐ起き上がる。今でいうリロードかな。要するにどこにでもいる。基本的な体力、あとは精神、負けん気がないとダメでしょ」

 石塚さんも神山さんも、170センチ、70キロちょいと小柄だった。それでも大きなメイジのような化け物FWにも挑みかかった。
 加えていえば、ワセダの伝統的な下級生の“しぼり”(特訓)のとき、神山さんも石塚さんもグラウンド走ではトップを走っていたそうだ。

 ワセダのフランカーは、間合いや踏み込みから足の運び方まで細かく指導される。とくに将来のキャプテンと目される部員は夏合宿などで徹底的にしぼられる。
 また全体練習のあと、ポジション練習があり、それが終われば、フリー練習に移る。「自分らしい練習」として、石塚さんは自著でこう、紹介している。

<スクラムマシーンに、上半身裸で突っ込むのだ。普通のスクラムマシーンは、肩の部分にパッドがついている。それを外して、直接、木製の肩にあたる部分へ当たるのである。これは、背中がまっすぐ伸びていること、頭が下がらないで前を見ること、両腕が上がり、しっかりパックすること、そして一番大切な緊張感がないと、肩の骨にあたってしまい、痛いのだ>(「炎のタックルマン 石塚武生」・ベースボールマガジン社)

 石塚さんのプレーの印象を聞けば、神山さんは「タックルがクローズアップされているけど」と前置きし、こう続けた。
「彼はよく、トライをとったところもあるよね。前に出る強さがあった。ウイングをやっていたから、トライをとる嗅覚もあったよ。そういう感じがしたね」

 石塚さんの公式戦デビューは、2年生の1972(昭和47)年10月29日の日本体育大学戦だった。石塚さんはラグビーノートに<タックルが次々と決まった>と記している。
 この年度、早大は順調に勝ち進み、12月の早明戦も19-14で勝ち、対抗戦の連勝記録を25に伸ばした。このとき、明大スクラムハーフには1年生の天才・松尾雄治さんがいた。

 年明けの1973(昭和48)年1月6日、全国大学選手権決勝でも早大と明大が再び相まみえた。早大が、あの劇的な逆転を食らった試合だ。翌日の新聞の見出しが、「明大、劇的逆転で悲願なる」「終了直前、渡辺貫、飛び込む」である。“ああ、あの試合か”と思い出すオールドファンも多々、いるだろう。

 秩父宮ラグビー場は約1万9千人の超満員だった。
 この試合、前半は早大ペースで進んだ。石塚さんも神山さんもタックルをよく決めた。明大ゴール前のスクラムから、早大ナンバー8の佐藤和吉さんがサイドを突破し、ウイング堀口孝さんがトライを決め、前半を9-3とリードした。

 ハーフタイム。今と違って、時間はわずか5分間ほどだった。ロッカー室に戻る余裕はない。早明の選手たちはグラウンド脇のベンチ前でそれぞれ円陣をつくった。
 アカクロジャージの輪の中で、石塚さんも神山さんも他の部員も、マツゲンさんこと松元秀雄監督を見つめていた。そこで、かの松元監督の名言が口から発せられた。

「空を見よ!」
 その時の空は真っ青だった。そのシーンを聞けば、神山さんは首を少しかしげ、右手の人差し指で上を指す仕草をつくった。
「マツゲンさん、こう、右手で天を指して言ったんだ。“おい、みんな、上を見てみろ、素晴らしい青空だろう”って。オレは、フッと笑う感じだったかな。青空のような広い気持ちで後半を戦おうということを言ったんだと思うよ」

 石塚さんは、<このひと言で僕らは落ち着きを取り戻した>と書いている。だが、この試合、ドラマチックな結末に持ち込まれることになるのだった。
 Mの歓喜、Wの失望。わずかなところで勝利が手よりこぼれた悪夢。これって、早大OBとして、書くのがつらいのだ。

タックル練習に励む早大時代の石塚武生さん(石塚家からの提供)

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