「もう5年になるか…」
山口良治はつぶやいた。
2016年10月20日。教え子の平尾誠二が亡くなった。師弟は伏見工を初めて高校日本一にした。
恩師は来年2月で79歳になる。今まで脳梗塞に2回、見舞われた。杖を手放せない。
「親よりも先に逝ったらアカン。大事なことを伝えられなかった」
教え子は、その容姿、プレー、知的さからミスター・ラグビーと呼ばれた。思い出は毎日、頭をよぎる。
「家の居間に大きいガラスばりのテーブルがあって、その下に写真がいっぱいはさんである。平尾のものもある。入院中、見舞ってくれた時のやつなんかやな」
その出会いは1977年の秋。今から45年ほど前にさかのぼる。京都の西京極。自分たちの前に、中学生が試合をしていた。
「後ろが空いた、蹴る。外があまってる、飛ばす。スタンドオフの子が実に的確やった」
現役時代、フランカーとして日本代表キャップ13を得た山口をうならせる。
所属の中学は陶化(とうか)。監督であり美術教員だった寺本義明の許可を取り、勧誘の家庭訪問をする。
「平尾はくりっとした目を輝かせていた」
日本代表の話などに聞き入った。
当時、強豪校がすでに声かけをしていた。山口は入学を諦めていた。
「ところが、事務室から、陶化の平尾くんから願書が出ています、って言うてきた。信じられん。飛び上がってよろこんだよ」
高校での対戦の記憶を小松節夫は『ラグビーマガジン クロニカル ヒーロー編』で語っている。天理のセンターだった。
<平尾がどこかを痛めたのか、うずくまってしまった。そこで、山口先生がハンドマイクを手にして『おい平尾、いけるのか、いけないのか』と問われた。そうしたら、平尾はすっくと起き上がってプレーに戻った。決して甘やかして育てているのではなく、厳しく接しているんだと思いました>
同じ年の2人は高校日本代表に選ばれる。小松は天理大を率い、昨年度、学生日本一になった。
山口は振り返る。
「そら、大事にはしていたよ。でもほかの生徒の手前、それは出せない」
監督よりも、保健・体育の教員だった。教育者らしく平等に軸足を置いた。
平尾は山口の下、高3時には主将になり、60回大会では初の全国優勝を呼び込む。決勝は7−3。大阪工大高(現・常翔学園)を後半ロスタイム、栗林彰のトライで降す。
決戦前夜、平尾は左ふとももを痛めていた。強い打撲だった。山口は懸命にマッサージを施す。
「立っているだけでいい」
平尾不在なら、機能しないチームだった。
「あの栗林のトライ、同じひとつのトライでもえらい違いやな。あれで、みんなの人生が変わったんやから」
監督就任6年目での日本一は、テレビドラマ『スクール★ウオーズ』のモチーフともなり、全国津々浦々に伝わった。決勝戦の涙も含め、山口は「泣き虫先生」と呼ばれる。
平尾は同志社に進んだ。
「のびのびやれたんがよかったと思う。押しつけられへんかったしね」
部長の岡仁詩は過度な上下関係を嫌い、自由な発想を尊んだ。平尾は2年時から、大学選手権を3連覇する。この数字は帝京の9連覇までは最長だった。
神戸製鋼では主将として、日本選手権と全国社会人大会(リーグワンの前身)の7連覇を達成する。選手としての日本代表キャップは35。現役引退後、1999年のワールドカップでは、監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ではGMなどをつとめた。すべてのルーツは京都工学院となった伏見工である。
出世を重ねても、恩は忘れない。
山口の孫、小村健太が高校進学を国内か海外かで悩んだ時、アドバイスを送った。
「家に来てくれて、1時間ほど話をしてくれた。社会情勢や企業の考え方なんかを交えてね。教員という狭い世界で生きて来た自分とは違い、色々な面からの助言だった」
小村はニュージーランドに渡る。ハミルトン・ボーイズで高校を終え、帝京に進学。今年は最上級生になった。弟の真也も兄をトレースする。この春、帝京に入学した。監督の岩出雅之は山口の日体大の後輩にあたる。
2015年のワールドカップでは、開催地のイングランドで会食をする予定だった。
「ロンドンに美味しいレストランがあります、って教えてくれた」
その時、平尾はすでに渡航できない体だった。病気のことは伏せられた。周囲は「先生の耳に入れるな。心配する」と慮った。
生きていたら、どうなっていたと思いますか? 死児の年を数える愚を承知できいた。しばらく無言のあと、言った。
「そら、協会の会長ぐらいしてるやろ」
平尾さんを一言でたとえると。
「理知的。表に出す前に、細かく分析をする。状況を見る」
そういう教え子はいましたか。
「いない」
即答だった。
寺本、岡、亀高素吉ら平尾に強い影響を与えた人々は鬼籍に入った。亀高は神戸製鋼の社長や会長を歴任、7連覇を支えた。
その中を山口は生きる。教え子のことを語り継ぐ。残る者の大切な使命である。