「それぞれ家の手伝いをしよう。台所に立って、ひとりで料理を作ってみよう」
全国優勝を狙う高校ラグビー部員が、監督に投げかけられたお題は、意外なものだった。
2020年の春。まだ巷では、感染拡大下で人や組織がどう振る舞うかの基準ができていなかった。何が批判され、何が範とされるか分からない中で、東海大仰星高校の湯浅監督が生徒に話したことは、聞いている側にもすっと腑に落ちた。「高校部活は何か」「ラグビーの位置付けは」、悶々としていた時に、ぽんと本質を目の前に置かれて、はっとした。
「ラグビーの前に学校がある。学校の前に家庭がある。僕らはまず家族の、欠かせないメンバーでいよう」
料理一つでも知恵や段取りの積み上げがあって、淡々と続く日常生活にも、見えないマネージメントがある。それを日々、担っている人がいる。学校も然り。ラグビー部というクラブも。そうして幾重にも層をなして支えられたコミュニティが、いくつも集まってようやく、大会が開かれる。
湯浅監督はまた、久々に登校してきた自分のクラスの教え子たちに話した。
「友達と会えるって、楽しいよな。もう少ししたら、授業の後には、自分と同じスポーツが好きな仲間と時間を過ごせる。ほんまうれしいよな」
当時のメディアは、高校生たちの不憫さを切り取ったものを好んだ。次々と大会が中止になり、モチベーションが見いだせないとか、目標を失った、といった悲痛な声がより集められネットに流れた。湯浅監督も、高3最後の舞台を失った他競技の生徒には寄り添った。
「がっかりしている彼らに、かけられる言葉は未だに見つかりません」
ただ、東海大仰星はメディアの作るストーリーに安易に乗らなかった。少なくとも湯浅先生は、他の部活動の生徒も含め、教え子を悲劇のステージには置かなかった。
「花園は、僕らのものではない。いただきものなんです」
自分たちがよって立つ場所を、あらためて一緒に確かめ、裸足で踏みしめさせた。
「彼らが目指すラグビーを、みんなで苦労しながら作る体験。自分もワクワクしてます」(同監督・2020年5月)
その上、もしも年末、全国からラグビー仲間が集まって試合ができたら、最高。
先生はきれいごとを言った。仮に懐では一筋縄ではいかない事情を抱えていたとしても、生徒に声が届く範囲では、本気で、きれいごとを言っていたと思う。
果たして、東海大仰星は最後まで未完のチームとして花園に散った。見事な戦いだった。全国高校大会、1月3日の準々決勝はライバル東福岡との同点劇。インジャリータイムが18分間も続く打ち合い、守り合いはシンプルで熾烈で、みる側にとっても宝物のような時間になった。抽選ではヒガシが「出場権あり」の封筒を引いたが、仰星はまだ成長していた。春の監督の覇気と、意欲的に基本練習に取り組む高校生たちの屈託ない表情は、この冬の日へと確かにつながっていた。
あの78分間は高校生たち自身が作りあげたゲームだった。ただ、そこに至る時間と空間は、無数の大人たちがハドルを組んで、守った舞台だ。
◎
2021年10月、大人たちがそっとハドルを組む。
東京と菅平高原(長野県)に拠点を持つRCCA(The Rugby Community Club Association/一般社団法人)が、「魔法のやかん基金」を立ち上げる(詳細は公式サイトに掲載予定)。家庭事情やケガなどで競技から離れる子どもたち、中高大学生たちを、主に経済的な面からサポートし、ラグビーの輪にとどまってもらうためのファンドだ。「スパイクのいらないラグビークラブ」RCCAでは、まず財源となる寄付(支援する側)の募集を始める。ラグビーの前の学校、学校の前の…。そんな部分のサポートに、手を貸そうというラグビーの大人たちを募る。
通称「ケトル・ファンド」。推し進めるRCCAの代表理事、高橋一聡さんの思いは強く、シンプルだ。「そんな境遇にいる子がいるなら、知った以上は、助けたい」。自分の周りには幸い、ラグビーにシンパシーのある熱く温かい人たちの、大きな輪がある。みんなで少しずつでも力を寄せ合えば、一人でも二人でも、「小さなラグビー仲間」を笑顔にできるのではないか。そんな願いがある。
「サポートする側のオヤジたちだって、その姿、笑顔を見られたら、きっとすごくうれしい。その先で、支援する・されるの関係を越えて、ずっと繋がりが続いたら、それ自体が大人たちへの『お返し』にもなる」
まっすぐに理念を伝える一聡さんの言葉を聞いていたら、大人たちが守った東福岡21-21仰星の試合と、唐突に、筆者自身の十代の体験が思い出された。一聡さんが、自分にとっては一学年上のスター選手だったからかもしれない。自分もまた、周りのサポートで大きくしてもらった小僧だった。
一聡さんのいた國學院久我山とは対戦さえ叶わないチームで高校2年になる直前に、事情で家族が四手に分かれて生活することになった。父から逃れて、妹たちと母は九州方面へ。自分は東京から横浜へ。幼馴染の家に住まわせてもらい、通学時間は倍以上になったが転校は免れた。3年の秋の大会前には東京で一人暮らしになり、大学入試まで凌いだ。運よく次の春からは大学ラグビー部でプレーできた。乱高下の毎日だったが、部活と仲間と食住があったので悲壮感はなかった。当時は自分の力で乗り切ったと勘違いしていた。のちに、あの頃、自分を支え手を差し伸べてくれた人にもそれぞれ事情があったことに、どうして気づけなかったか、などと考えてきたが、「それも違う」とまた思い直した。
高校生がのんきに過ごせたのは、余計な思いを背負わなくてすむように、周りの大人がふるまってくれていたからだ。まさに物心両面の支えに恵まれた。高校、大学の7年は確かに私自身のブカツ人生だが、その時間、空間は、多くの人たちが守ってくれていたものだった。
◎
RCCAのケトル・ファンドは病気・災害・自死遺児の支援で知られる「一般財団法人 あしなが育英会」職員のサポートを受け設立、運営を始める。「あしなが」のリーダー育成課課長の佐藤弘康さんは自らもあしなが奨学生でラグビーマン。佐藤さんによれば、遺児にとって部活動は、最初に手放す希望なのだという。「家が経済的に苦しくなった時に、子どもが自ら部活動から身を引くケースは多いんです」。月に数千円の費用でも、中高生には絶望的に重い。大人が手立てを用意できれば、一人のラグビーの灯が消えずにすむ。火は糧になって、一人の人生のかけがえのない根や幹をつくる。
将来のラグビー仲間が、今は子供らしく、学生らしく。屈託なくボールのそばに、仲間のそばにいられるようにしてやれるのは、私たち大人だけだ。