多くの仲間、チームメート、友人たちからメッセージが届いた。SNSにも、長年のハードワークをねぎらう声が多く見られた。
小野晃征が笑顔で言った。
「長い間、おつかれさま。そんなメッセージをたくさんもらいました。そう言ってもらうためにやってきたわけではないけど、(現役生活が)終わったときに、たくさんの声をかけてもらえるのは嬉しいですね」
9月22日、所属する宗像サニックスブルースから退団発表があった(2007年度〜2011年度、2020年度に在籍)。
トップリーグ14シーズンでピッチに立つこと100試合超。サントリー(2012年度〜2019年度在籍)で頂点に立ち、日本代表のジャージーを着て南アフリカを倒した。
171センチ、83キロの体躯で世界を相手に戦ってきた。
「ここ数年間はケガで(ほとんど)試合に出ていないのに、たくさんのメッセージをもらいました。辛いとき、きついときに一緒に戦った選手からのものが多く、嬉しかったなあ」
歩んできた道を振り返って言う。
「みんなとの、ラグビー以外の想い出がたくさんあります。グラウンド以外でもコミュニケーションを取ってきました。引退はしますが、そういうつながりはスパイクを脱いでも続きます」
ラストシーズンは3試合の出場に終わった。キックの際、軸足である左足の内転筋を痛めた。
「早く復帰したかった」とコンディション整備を急ぐも、治りかけてはふたたび痛め、結果的にシーズンを通して3度肉離れのケガを負う。
「オフに入って走ったら、また痛めました」
新シーズンもプレーするつもりだった。
家族とともに宗像でオフを過ごす予定だったが、コロナ禍の状況もあり、ニュージーランド(以下、NZ)で過ごすことにする。
そこでもう一度考えた。そして、家族とともにあらためて判断する。
「(ケガの不安で)自分がピッチに立っている姿が見えてこなかった」
納得できる貢献ができない。そう思って決断した。
「プロとして(生活するための)お金も大事だけどそれ以上に、自分がピッチに立つときは、自分が納得できる状態でないといけないと考えてきました。なので、ケガのことも踏まえ、決めました。サニックスも新しいチームを作ろうとしている。ピッチに立てなかったら迷惑をかけてしまう」
愛知・名古屋で生まれる。1歳半で両親とNZへ移住した。
2歳半からの半年は妹の出産のため日本へ戻るも、すぐにラグビー王国へ戻り、19歳まで同地で育つ。
クライストチャーチボーイズ高では、のちにオールブラックスとなる仲間たちとBKラインに立ち、U19カンタベリー代表にも選ばれた。
2007年1月。クライストチャーチで受けた1本の電話で人生が変わった。携帯電話に着信があった。当時、日本代表ヘッドコーチを務めていたジョン・カーワンが発信者だった。
「日本代表スコッドの合宿に参加してほしい」
19歳の春、『来日』した。
サニックスへの入団も決まっていたが、トップリーグ出場前にサクラのジャージーを着た。
「日本での初めての試合は、秩父宮ラグビー場での韓国とのテストマッチでした」
2007年4月22日、初キャップを得る。20歳になって6日目のことだった。
同年秋のワールドカップにも出場した。
近年は怪我に悩まされるも、「(日本で)14年間もプレーできて幸せでした」とポジティブに語る。
「ただ、どんな選手でも引退は寂しいものです。仲間と毎日汗をかいて、試合に勝つための努力をしてきた。それが急になくなるんですから。生活もガラッと変わります」
最後の最後まで成長できたと話す。
「最初の10年間はほとんどケガなくやれたけど、体が小さい分、(疲労が蓄積して)最後はケガが続いたのは残念です。でも、その間にも成長できた。ケガをした人の気持ち、本当のところは、それまでは分かっていなかったかもしれません」
リハビリを繰り返す。復調の度合いは数字では見えない。一足飛びの回復なんてありえない。
ドクターやトレーナーからゴーサインが出ても体が思うように動かないこともある。
メンタルは常に揺れ動く。それを経験し、精神的に大きくなった。
「そんな中でも、ケガをしていてもチームに貢献できることはたくさんあった」と言う。
次の世代に、自分の影響を与えるのも自分の仕事。そう考えて行動した。
「教える、というのとは少し違います。選手たちは自分で学ぶもの。だからそばにいたり、メンタル的に凹んでいる時にサポートしたりしました」
そして、この人ならでは、の貢献も。
「外国人選手のことも自分ができることの一つでした。企業とチーム、日本の文化をリスペクトする選手が長くプレーできる、インパクトある働きができると思ってきたので、そのあたりをサポートしました」
14シーズンを振り返り、「いろんな人に支えてもらった時間。たくさんの人とつながれた」と感謝する。
これからは大手マネージメント会社で、選手たちの人生をサポートする側にまわる。
「プロ生活を終えて、すぐに新しい道に踏み出す機会をいただけた。本当にありがたいことです」
ラグビー選手として生きていく基盤を作ってくれたサニックスでの若き日々。2015年ワールドカップでの輝き。
サントリーを頂点に導いた2016年は、シーズンの全17戦に出場した(ほぼフルタイマー)。
「全部、自分ひとりではできなかったこと。だから記憶に残っている。2015年の(南アフリカ撃破)ことも、すごく長いキャンプをした後に結果を残せた、という想い出です。みんなとやったことで、日本のラグビーが変わった気がして嬉しかった」
この先も、これまでとは違った形で日本ラグビーの進化を支えていく。
ラグビーで幸せな人生と仲間を得られるように、選手たちをサポートしていく。