あれはまだ、世界中のラグビー選手が列島をフェス化させるよりも数十か月も前のことだ。
東京は秩父宮ラグビー場の空色の自由席に座る愛好家が、当時勝ちまくっていた帝京大の試合を観てかようにつぶやいた。
「皆、同じに見える」
長らく競技に親しむ人ほど、これが奥の深い誉め言葉だとわかるだろう。
確かに帝京大の学生戦士たちは、鍛えられた体躯、短く当世風に切り揃えた黒髪のほか、接点で踏み込む際の粘り腰、地面に仰向けでない姿勢で倒れて素早く起き上がるさま、捕球からパスに至るまで下がらぬ肘、スペースへ球を呼び込む際の声の掛け合いと、あらゆる要素で統一感を醸していた。
ラグビーでは、「セイムページ」という言葉がある。チーム間でのビジョンの共有を促すフレーズだ。各自の「セイムページ」を一定水準のスキルで具現化できた集団は、チャンスで得点でき、ピンチを未然に防げるわけだ。
帝京大はその「セイムページ」を表現することで、晩秋の大一番を制していた。グラウンドを離れれば個性豊かな面々が、赤のジャージーを着たとたんに「皆、同じに見える」。そんな一市民の印象は、当該チームの強さを見事に言い当てていた。
「皆、同じに見える」の凄みは、プロ選手のいる大会でも効力を発揮する。
かつてニュージーランドのクルセイダーズを率いてスーパーラグビー5度、制覇した埼玉パナソニックのロビー・ディーンズ監督は、2016年頃にこう述べている。
「スーパーラグビーでも、お金やタレントを持ったチームが勝ってきたわけではない。コミュニティーとして機能するチームが、優勝してきています。リーグ発足当初こそ首都オークランドのブルーズがたくさんの選手を抱えて優勝していましたが、その後はカンタベリーのクルセイダーズ、ワイカトのチーフス(2012年から2連覇)、オタゴのハイランダーズ(2015年に初優勝)と、都市部から離れたチームがコミュニティーを形成。強くなっています。各選手はチームが自分にとって意味のあるものと思わなくてはなりませんし、チームは人と人との繋がりを大事にしなくてはいけない。チームワークがなければ、勝てない」
埼玉パナソニックの加盟するリーグワンの前身が、ジャパンラグビートップリーグ。このコンペティションにおいても、海外の一流戦士を招いて何度も優勝した某クラブの関係者が「大物外国人の存在を勝利に近づける術」について、「規律」と断言。確かに、その頃各部にいたビッグネームには、若手の自主練習に付き合うかどうかで個人差があった。
一定の規則性を持つ集団こそが栄華を築く。限りなく真理に近そうだったその仮説が覆されかけたのは、熱狂的なワールドカップ日本大会が終わってからだ。
日本代表を陰で支えた藤井雄一郎・強化委員長(現ナショナルチームディレクター)が、当時を回顧する流れで「ジャパンには、キャラクターがあった」との旨を発言。「キャラクター」は優勝した南アフリカ代表にもあって、期待されたほどの成績を残せなかった強豪国にはその「キャラクター」が不足していたのでは、とも見立てたのだ。
ここでの「キャラクター」は、個性とも言い換えられる。各々の顔立ち、シルエット、競技歴をはじめとしたバックボーン、筋肉の付き方、プレー中のしぐさ、得意なパフォーマンスがそれぞれ粒立っているチームを「キャラクターがある」とするなら、確かにあの季節のジャパンは「キャラクター」の宝庫だった。
『ONE TEAM』という連帯感のにじむ標語を掲げて一定の規則性を保ちながらも、多彩なラン、パス、キックを織り交ぜ初めて8強入り。ひたすらタックルし続ける左PRの稲垣啓太は「笑わない」からと時代の寵児になり、父がジンバブエ人ジャーナリストだったWTB兼FBの松島幸太朗はファッション誌の表紙を飾る。15歳で来日したニュージーランド出身FLのリーチ マイケルは、滋味のある顔立ちと声が印象的な国際人である。
興味深いのは、ドレッドヘアで軽快かつ重厚なHOの堀江翔太、海外勢と防御網を作って大男に突き刺さるCTBの中村亮土ら、2010年前後の帝京大を支えた面々も日本代表の希少な「キャラクター」だったことだ。
プレースタイルが一貫しているのに個々が粒立って映るのは、通称「スプリングボクス」こと南アフリカ代表も同じだった。
遂行されるのはボックスキックでのエリア獲得、飛び出す組織防御、力強いセットプレーと、均質性を是とするプレーのオンパレード。それでもその演者たちは、雑踏で遠くに立っていてもその存在が見つかる風情である。
攻めを束ねる司令塔団は、ブロンドヘアをなびかせ縦横無尽に走るフランソワ・デ・クラークに、聡明な顔立ちでロングキックを繰り出すハンドレ・ポラード。身体をぶつけ合うFWでは、上腕の刺青が印象的で地上戦に強いHOのマルコム・マークス、歴代初の黒人主将だったFLのシヤ・コリシに加え、焦げ茶色の長髪を振り乱すフランコ・モスタート、前髪と眼光が鋭いエベン・エツベス、スパイラルのかかった金髪のRG・スナイマンといったLO勢もインパクト抜群である。
確かにラグビーのチームでは、PRはスクラムを組めるだけの骨格の太さ、LOは背の高さや頑丈さ、WTBはスピード、SHはパスの上手さと、ポジションごとに異なる特性が求められる。言うなれば、「皆、同じに見えない」ほうが自然でもある。
ここで重要なのは、2019年の日本代表や南アフリカ代表の面々が無理に異なる「キャラクター」を演じていないことだ。
各自の与えられた環境で競技と出会い、没頭し、時に余暇を楽しみ、そのままではいけないとまたグラウンドへ戻り、行く先々で評価され、自己責任で選んだナショナルチームの文化に溶け込んでいるのだ。本当に個性がある人は、集団の色に染まってもその個性は消せない。
そこにいる選手が「皆、同じに見える」うえに「皆、同じに見えない」ようなチームこそ、大勝負を制したり、人々の記憶に残ったりする、とも言える。
ちなみに2021年度の大学ラグビーシーンでは、各部が「皆、同じに見える」より「皆、同じに見えない」を軸に据えるようパラダイムシフトを進めている印象だ。
2017年まで9連覇と栄華を築いた帝京大の勤勉な文化は、ライバル校の「参考資料」となって久しい。最近ではその史実が背景となり、各部がぎらりと際立つ人格を適材適所で置く。自称「にわかファン」の顧客は、配信画面の上からでも「推し」を見つけやすいのではないか。
とにかく、ラグビーではチームに統一感がないと勝ちづらいうえ、選手に個性がないとそれはそれで勝ちづらい。相反するふたつの見解がどちらも真実であるあたりに、このスポーツの面白さがにじむ。