ラグビーリパブリック

タックルマン石塚武生の青春日記②

2021.09.21

ウエールズ戦後の胴上げ、ジャージで顔を隠す石塚武生さん(石塚家からの提供)

“武器”として磨いたタックル。
ウエールズ戦の会心のタックル。
恥ずかしい胴上げ。

 タックル、タックル、またタックル。当時の選手名鑑には「170センチ、75キロ」とある。石塚武生さんの小さな体には、どんな大きな相手にも挑みかかる気概があった。背番号7はいつしか、「タックルマン」、そう形容されることになった。

「武器」、石塚さんの遺したラグビー日記をめくると、この二文字が黒い太字で書かれている。ラガーマンとして生きていく上での自身の矜持だったのだろう。

<よく人は、絶対、「これだけは負けない」というものを持った者は強いという。確かにそうだと思う。スポーツの世界では、「やつは足だけは速い」「足腰だけは強い」「キャッチングだけはうまい」のように何かひとつ特徴を持っていることで、その選手の個性を知ることができる
 (中略)

 これは断言できる。何か「武器」を持っている人は強い。その武器を見出すのは本人であり、コーチである。僕はウイングとして足の速さでは失格した。ショックだった。だから、フランカーとしてアカクロ(早大レギュラーの公式ジャージ)を着るためには何か武器が必要だったのだ。自分には足の速さはない。体格も大きくない。しかし、タックルだ。タックルだけは誰に対しても与えられたプレーのひとつであり、誰でも平等にできる。

 自分自身を追い込んでいって気力を爆発させる。それがラグビーだ。僕はそれをとくにタックルで爆発させた。ただ、それだけだ。
 人は、僕をタックルマンと呼んでくれる。正直言って、うれしい。誇りに思う。そして、タックルから自分のプレーは大きくなり、自分の世界を大きく広げることができた>

 筆者にとって、まばゆいのは1975(昭和50)年9月24日の石塚さんのタックルである。この日、日本代表は国立競技場(旧いもの)で、当時世界最強といわれた“赤い悪魔”、ウエールズ代表と対峙した。今でも、筆者は相手メンバーをそらで言える。ナンバー8のマービン・デービス、SOのフィル・ベネット、そしてWTBのJ・J・ウィリアムズ。

 あの世界最速ウイングのJJのカットインは当時、日本人にできなかった。結果は、6-82のワンサイド、でも後半途中に石塚さんが意地を見せた。JJがトライを目指して左のタッチライン際を駆け抜けようとしたところ、石塚さんがタックルでラインの外へ押し倒した。

 5万5千の大観衆も歓喜したが、福岡のテレビの前で正座していた中学生の筆者も、思わず立ち上がって手をたたいた。ラグビーの魅力に触れ、よしっ、高校にいったらラグビー部に入ろう、そう心で決めたことをおぼえている。

 石塚さんは自著でこう、述懐している。
<私とJJとの距離は約20メートル。角度45度。瞬時に自分の走るスピードと相手のスピードを考え、タックルに行くコースを決めた。
 (中略)
 JJが、「まさか」と思う角度からタックルに行かなければならない。それもトップスピードで、一瞬にして決めなければならない。真横から入るのがベストだった。

 前に出ながら、自分の絶対に行けるコースが決まった。スピードをつける。ここがタックルポイント。JJがもんどりうって倒れた。JJが、呆然とした顔を私に向けていた。会心のタックルだった>(「炎のタックルマン 石塚武生」 ベースボール・マガジン社)

 珍しい光景だった。石塚さんは試合後、興奮してグラウンドになだれ込んだファンの手によって胴上げされたのだ。タックルマンの述懐。

<なんだ、なんだ、と思っているうちに、アッという間に、ファンが私を取り囲んでいた。こんなことがあるのだろうか。気がついたら、私は、何度も宙に浮いていた。私は恥ずかしくて、ジャージで顔を隠していた>

 それから、46年が経った。秋の気配漂う9月某日。その試合、フルバックとして一緒に戦った植山信幸さんに電話をかけた。植山さんは早大で石塚さんの一学年上、筆者の早大4年の時の監督をしていただいた。いま69歳。「ふふふ。なんだよ」。いつもの明るい声。

 あのウエールズ戦のことを唐突に聞けば、「ぼろ負けした試合? ウエールズは強かったね。コテンパンにやられたよ」とわらった。石塚さんは?
「鮮明におぼえていることは何もないなあ。ただ、石塚はラグビー、大好きだったからさ。よく走って、よく(相手を)止めていたね。ラグビーにかける情熱がすごかった」

 石塚さんは1971(昭和46)年、早大に入学した。70年安保闘争、学生運動などの余韻が残る中、若者たちが青春のエネルギーのやり場を模索していた時代。ラグビー界では、日本代表のニュージーランド「オールブラックス・ジュニア」戦勝利(1968年)、日本のイングランド戦の死闘(1971年)、早大の快進撃などで人気が盛り上がっていた。

 石塚さんが1年生の時、植山さんは2年生だった。「おれも2年の初めで、あんまり人のことを気にする余裕はなかったよ」と遠い記憶をたどってくれた。

「当時、フォワードが少なかったから、バックスで入ってきた1年生の多くが、フォワードにいかされていた。ウイングで入ってきた石塚もすぐ、”はい、フォワード”っていう感じだ。おれは細くてフォワードに行ったら死んじゃうから、バックスに残されたけどね」

 どこの大学でも一緒だろうが、当時の体育会のクラブの1年生の精神的な重圧としんどさは想像を絶するものがあった。石塚さんは早大ラグビー部入部当初の苛烈な日々をラグビー日記に「息がつまりそうな毎日」と殴り書きしている。

<精神的にも肉体的にもボロボロだった。きつくて、着ているものも、一週間ほどは着替えることができなかった>

晴天下のグラウンドでタックルを指導する石塚武生さん(右)=石塚家からの提供

タックルマン石塚武生の青春日記はこちらから読めます。

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