ラグビーリパブリック

号泣しながら食べたアイスクリーム。桑井亜乃(元女子セブンズ日本代表)、引退とレフリー挑戦を語る

2021.09.03

172センチ。ダイナミックにプレーした。キャップ・ラガーズのカフェにて。(撮影/松本かおり)

勤務していた八木橋(百貨店)も退社し、レフリー活動に注力する。夢を叶えることで、お世話になった方たちへ感謝を伝えたい。(撮影/松本かおり)



 ラグビー人生の前半は、夏の太陽みたいだった。
 ぐんぐん高くのぼり、光り輝いた。
 女子セブンズ日本代表として32キャップを持つ桑井亜乃は、本格的にラグビーを始めて1年で日本代表になり、5年目にはリオ五輪に出た。

 ラグビー人生の後半は、「自分にクソッ」と思うことの繰り返しだった気がする。
 リオ五輪の翌年も走り続け、アップダウンはありながらも、2018年8月にインドネシアで開催されたアジア競技大会まではサクラのジャージーを着た(金メダル獲得)。
 しかし、今夏の東京オリンピックへの出場は叶わなかった。

 8月31日、現役引退を表明した。
 中学時代は砲丸投げ、帯広農高、中京大と円盤投げの選手として活躍。大学の授業でラグビーと出会ったことがきっかけで、教員志望を変更する。Rugirl-7、アルカス熊谷と、楕円球一色で過ごした生活を終えた。
 引退と同時に、レフリーとして2024年のパリ五輪を目指すことも発表した。

 22歳でラグビーを始めてから約9年半。引退の理由は「やり切った」からだ。
 2度目の五輪出場を最後の最後まで目指した。そのチャレンジが終わったとき、自分の中に走り続ける気力も体力も残っていないことに気づいた。

 太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ2021の今季最終戦(6月26日、27日)、鈴鹿大会の3位決定戦がラストゲームになった。
 6月19日には、東京五輪に出場するサクラセブンズのメンバーが発表されていた。
「引退を決めていたわけではありません。大会が終わった時にどんな感覚になるかな、と思っていました。しばらく経って、もう力が残っていないことに気づきました」

 今季の太陽生命セブンズの第2戦、静岡大会の初戦で頬骨を骨折したものの、そのままプレーを続け、次の熊谷大会にも出場した。
 五輪メンバーに選ばれる可能性が少しでもあるのなら、ピッチに立ち続けていないと奇跡は起きないと考えた結果だった。

 選ぶ人たちは、きっとこっちを見てくれている。代表から外れても、いつもそう信じて生きた。
 代表生活の終盤、遠征メンバーには選ばれても、バックアップメンバーのまま終わることが何度かあった。
 せっかく出場メンバーに選ばれたのに、直前に体調を崩して出場機会がなかったこともある。

 もがいた。
 迷わず前に出ていたリオ五輪の頃の自分に戻るにはどうしたらいいのか。あのときの自分を超えるには何が必要なのだろう。新しい武器を持たないといけない。
 そう考え、体を絞り込んだこともあった。食事に気を配り、アスリートフードマイスターの資格も取った。

 2018年のワールドカップ・セブンズのメンバーから外れたときのことを思い出す(バックアップメンバーになる)。
 落選を知らされた後、当時サクラセブンズを指導していたレスリー・マッケンジー コーチ(現15人制代表ヘッドコーチ)が「あなたが頑張っているのは知っている。こんな時ぐらい好きなものを食べようよ」と言ってくれた。
「一緒にアイスクリームを食べました。号泣しながら」
 自分を見てくれている人がいた。嬉しくてたまらなかった。

 辛い結果を受け取るたびに、「自分にクソッ」と思うことで、切り替えてきた。
 その瞬間から、ピッチに立てない自分にだってチームのためにできることはあると考え、動くようにした。
 代表に入れず沈んだ気持ちで合宿から戻っても、自チームでは落ち込んだ姿を周囲に感じさせることはないように振る舞った。

 痛みと弱みを見せない生き方を信条としてアスリート生活を送った。
 リオ五輪の翌年、代表選手の責任感を背負って戦い続けていたとき、何度も吐き気に襲われた。五輪前年の予選の頃から重圧の連続だった。精神的疲弊が続いた結果だった。

 今年の頬骨骨折をはじめ、ケガも絶えなかった。
 それでも、自ら休みたいと言えばチャンスを放棄するようで、いつも平気な顔をした。
「知春さん(中村主将)なんて、もっとヒドイ状態だと思いますよ」
 そう言って笑い飛ばす。

もっとも記憶に残るシーンは、リオ五輪予選を突破した時のこと(写真上/2015年11月)。秩父宮で五輪出場権を手にし、「応援してくれる人たちのもとへ走ったときの喜びは忘れられません」。(撮影/松本かおり)



 落選は、何度経験しても悔しかった。仕方ないと思ったことは一度もない。
 そのたびに、また這い上がろうと決意した。
 屈しない気持ちの強さも、「最後まで変わらなかった」。
 それこそが桑井の価値だ。

 今春、アルカスの練習試合の時、円陣の中で怒った。相手を格下に見ている仲間がいるような空気を感じたから、「そんな気持ちがあるなら帰れ」と言葉を荒げた。
 最後まで成長し続け、いい選手になっていた。代表コーチは気づいていてくれたかな。

 今年3月、ひと回り年下の選手もいるSDS(セブンズ・デベロップメント・スコッド)合宿に招集された。オリンピックスコッドと練習試合で対する機会を得た。
 そこに呼ばれるということは、まだ脈があるということだと理解した。
 1日に6試合のハードなスケジュールも、集中力を高め、やれることはやった。

 いつだって、以前より成長している自分がいるようにしてきた自負がある。
 リオ五輪の時より、いろんなことができるようになった。あのときと同じような強さだってある。
 それらを振り絞ったけれど、選ばれなかった。結局、最後までコーチ陣が求める自分にはなれなかった。最後まで正解が分からなかった。

「ラグビーをやって、人の痛みがわかるようになりました。人と寄り添うことの素晴らしさも。優しさも」
 人生の難しさも、楽しさも、いろんなことを、たくさん学んだ。

「五輪は私にとって、思っていた通り、いや、それ以上の舞台でした。いろんな人たちの笑顔に多く触れられた。その笑顔が頭の中に浮かぶ瞬間が本当にあった。あの感覚をもう一度味わいたくて、東京も目指していたと思います」
 ラグビーをやって幸せだった。

 引退発表とレフリー挑戦を表明したら、すぐに大勢の人たちから連絡が届いた。
 おつかれさま。
 ありがとう。
 うちのチームに来て、レフリーやってよ。練習してよ。
 嬉しいメッセージを見ながら、自分はひとりでは生きていない、生きてこられなかったとあらためて感じた。

 新しいチャレンジを始めるのは、以前、トップアスリートからレフリーに転じるプロジェクトの候補者として声をかけてもらったことがきっかけだ。
 今年になって高校セブンズ大会のサポートをしたり、女子大会でアシスタントレフリーを務め、少しずつ新しい世界にコミットする機会を増やしてきた。

 周囲より遅くラグビーを始めた分、ルールブックを熟読した経験はある。しかし、「自分がレフリーなんて、以前なら考えたこともなかった」。
 それが本音だ。

 挑戦が決まってからラグビーの見方が変わった。アルカスの練習で笛を吹くこともあるけれど、選手時代は「レフリー!」と相手の反則をアピールしていた自分なのに、笛を手にした途端にそれが見えない自分がいることに気づく。

「これまで文句を言ってごめんなさい、と反省しています。内部に入って、レフリーの人たちが試合ごと、大会ごとにたくさんの時間を使ってレビューしていることもあらためて分かりました」

 2024年(パリ五輪)まで、時間は僅かしかないのに、レフリーとしてそこに立つためには、やるべきことは山積み。レフリー活動に専念する3年間を過ごすつもりだ。
 世界と戦ったオリンピアンが、レフリーとして、その舞台に戻る。
 これまで同様、人生をかけて取り組む価値がある。

 東京オリンピック、サクラセブンズの試合は、リオ五輪に出場した仲間と3人でテレビ観戦した。
 みんな必死に戦っていた。このチームが日本で一番なのだから、それで勝てないのだから仕方ないね。自分にそう言い聞かせて画面を見つめた。

 3年後のオリンピック時はどこにいるだろう。
 選手たち、あるいはピッチを見つめる人たちが、あのレフリーはリオ五輪にはプレーヤーとして出場したんだよね、と覚えていてくれるかな。
 そうなった結果、あとに続く人たちが出てきてくれたら嬉しい。

 桑井レフリーのジャッジだから信頼しよう、と思われるように頑張らなきゃ。
 そのときもまた、応援してくれた多くの人たちの顔が頭に浮かぶだろうな。

1989年10月20日生まれ、31歳。三人姉妹の末っ子。女子15 人制日本代表のキャップも1つ持つ。(撮影/松本かおり)